青識亜論氏との議論

2013年04月29日

青識亜論氏との議論 目次

captain_nemo_1982 at 18:00|PermalinkComments(7)TrackBack(0)

規範形成の過程は、あくまで完全な自由でなければならない


青識亜論氏との議論


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468 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/09(金) 14:07:08 ID:U/sG59/l


空想ポルノ規制と実写ポルノ規制の間の差について、
captain_nemo_1982さんの議論と絡んで、個人的な意見を。


「captain_nemo_1982さんの議論」 とは、
感情論で児童の人権を線引きする規制反対派
における私の主張を指します。


>単純所持や二次創作物の流布に至るまでが
>実在の児童の人権を侵害すると考えている

これはおそらく事実で、ポルノが犯罪を増加させるか否か
(その科学的根拠があるか否か)にかかわらず、
ポルノは実在の児童・女性の人権を侵害するというのが、
ドゥオーキン以来の反ポルノ運動の旗印だった。

とはいえ、captain_nemo_1982さんが書かれているように、
これは感情論にすぎない。
それでは、彼らの感情論と空想ポルノ規制反対論を区別するのに、
本当に「客観的・普遍的根拠」が必要なのだろうか?
僕は空想ポルノ規制と実写ポルノ規制の間には、問題に
質的な差があると考えている。

表現の自由はあらゆる自由の上段に位置している、
と一般に考えられている。

あらゆる自由は法によって制限を加えられ、
法は規範・慣習(ノルム)によって形成される。
例えば、「児童の人権は(特別に)保護されるべき」という、法を論じるうえで
われわれが共有する前提は、
近代に入って形成された「児童保護」という規範倫理だ。

児童に売買春をさせてはならないというのは、児童が性の自己決定能力を
欠いているという前提に基づくが、
婚姻年齢の歴史的推移やカノン法学における
(今日の意味での)幼児性愛の扱いを考えれば、
こうした前提が時代的な規範にすぎないことは明らかだろう。

ということは、自由主義と言いながら、われわれは個人の自由を、
全体の規範にあわせて制限していることになる。




469 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/09(金) 14:07:33 ID:U/sG59/l


これはある意味で当たり前の話で、すべての個人が完全に自由に振舞うことは、
すべての人間が自由を失うに等しいからだ。
完全な自由とは、結局、強者による弱者の支配に他ならない。

ホッブズが言ったように、「万人の万人に対する闘争」を生み、
自由は失われる。
だからまず第一に、メタ的な論理として、自由を否定する自由、
他者の自由を侵害する自由は、自由の自己否定につながるので認められない。

J・S・ミルが『自由論』で論じたように、自由とは
「他者の自由を侵害しない限りにおいての」自由でなければならない。

第二に、そうした自由から発する行為は、社会の紐帯となる規範によって
制限されなければならない。
「児童に性の自己決定能力が欠いているとする根拠は何か?」
と問われたならば、
結局、それが社会的な合意、倫理規範だからという回答以外は不可能だ。
それゆえ、規範の否定は、突き詰めればあらゆる法の否定に他ならない。

そうすると、今度はその規範はなによって定められるべきか? 
という問題が発生する。
もっと言えば、自由主義の枠内で、自由を束縛する規範を、
どうやって肯定するのか、ということだ。
例えば、単に多数者の感情が求めるものが、規範であるとするならば、
それは力が数に置き換わっただけで、「万人の万人に対する闘争」状態を
脱することはできないだろう。
この問題に関しては、おそらく絶対的な解答を期待することはできない
(少なくとも今の社会科学の枠内では)。

そこで、近代社会は次善の策として、表現の自由と民主主義をとってきた。
この二つは、「表現の自由=民主主義」と言われるように、表裏一体である。

民主主義を単なる多数決ととらえ、多数者の規範を
絶対的なものととらえるならば、それは多数者独裁にすぎない。

あらゆる規範が相対的なものとしてとらえられ、
表現の闘技場(アリーナ)で意見が戦わされ、
そして各人が自己の信ずる規範を「自由な意思によって」選択した結果として
形成される規範のみが、自由主義のもとで自由を制限するに値する規範である。
(これが、不十分ながら前述の問に対する解答となる)

そこで選ばれた規範に従い、法が作られ、われわれの行為は制限される。





470 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/09(金) 14:08:16 ID:U/sG59/l


ここで重要なのは、その規範形成の過程は、
あくまで完全な自由でなければならないということだ。
それが表現の自由の意味である。

人は規範を形成する。何によってか? 情報によってである。
様々に異なる規範が、自由な表現という形で闘争する。
われわれはそれを見て、自己の規範を自己の自由な意志によって形成する。

表現の結果として、人々に受け入れられなかった規範は、
社会全体の規範とはなりえず、人々の行為を制限することは出来ない。

ときに、その時代の社会的な規範とされていたものを、そうでなかった規範が、
繰り返し行われる表現活動によって、打ち破られることがある。
例えば、自由恋愛や、職業差別の撤廃や、児童保護や、蓄財の肯定などは
その典型であろう。
極言すれば民主主義とは、表現の闘技場に投げ込まれるあらゆる規範に、
制限を設けないということだ。

「行為」はその社会・時代の規範に従わなければならないが、
「表現」は規範を形成する前提なので、規範に従う必要はない。
自由恋愛はかつて社会規範に反していたが、
スタンダールなどの恋愛小説によって、
社会の規範として認められるようになった。

もちろん、自由主義・民主主義以前の社会では、こうした反社会的な著作は
(スタンダールも含め)迫害を受けたが、
自由主義社会においてそうした迫害が
肯定されるべきでないことは自明である。

なぜなら、繰り返しになるが、われわれは現時点の規範には従って
「行為」しなければならないが、
将来的に規範を変化させうる「表現」については、
制限するすべきでないからである。
変化しうるにもかかわらず変化しなかったことが、
規範の正当性を与えているのであり、
規範が絶対化される社会は、その規範を規定する「なにか」によって
自由が失われた社会だ。





471 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/09(金) 14:08:41 ID:U/sG59/l


これが、表現の自由を民主主義の前提と考える理由である。

しかし、表現は常に行為と完全な独立関係にあるわけではない。
例えば、個人のプライバシーを暴く表現、名誉を毀損する表現は、
個人の「行為」の次元に影響を与え、
実際の生活上の自由を脅かす可能性がある。
  (つまり、その個人が表現によって「見られる」という
    「行為」次元の問題が含まれている。
     厳密に法学的に言えば、死者への冒涜など、
      「行為」次元と必ずしも関連しないものもあるが)

自由の原則に照らし合わせれば、「他者の自由を侵害する」自由を
認めるべきではない。
現在の法律では、実際の生活に支障があるほど、
私人の名誉やプライバシーを侵害する行為は違法である。

実写ポルノの問題も、個人の行為と密接に結びついた
表現であるという点に起因する。
実写ポルノは性行為が「撮影される」という「行為」を含んでおり、
写真が手に取られることによって、少女達は他者から
「観察される」「見られる」という「行為」の次元の問題を含む。

少女が性の自己決定能力に欠くというのは、絶対的な倫理規範ではなく
  (絶対的規範なるものが存在するかもあやしい)、
あくまでわれわれの社会の規範に過ぎないが、
われわれは行為の次元ではそれに従わなければならない。
それゆえ、実写ポルノは「行為」次元の問題として、規範的に論じられる。

ところが、いわゆる空想ポルノは、「表現する」「表現を受け取る」という、
純粋に「表現」次元の問題である。

そこに描かれている女性は、実在の女性ではないので、
個々の女性に対して「行為」次元でかかわりがあるわけではない。

一部の反ポルノ派の主張や、かつての日本の刑法175条の解釈のように、
「性行為の非公然性」といった、規範が変更されることが、
女性や一般大衆の人権侵害にあたるという議論は、
自由主義の大前提である、規範変更の可能性をまったく担保していない。

もし「行為」次元でなんらかの影響があることが、
科学的に証明されたならば(例えば強力効果論)、
空想ポルノ規制にもいちおうの根拠が与えられることになるが、
そうした結果は今のところ存在しない。





472 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/09(金) 14:09:05 ID:U/sG59/l


この議論に対する法学者の反論として、もっともポピュラーなものは、
「ポルノは表現ではない」というものだ。

しかし、なにが表現か、ということを規定している時点で、
それはすでに「表現」次元に現在の規範を持ち込んでいる。
すでに挙げたスタンダールの恋愛小説のように、
前の時代に反社会的な大衆娯楽と考えられていたものが、
後の時代に規範として受け入れられ、文学に昇華されることはしばしばある。

何が表現かを決める権力を何かに与えることは(例え選挙民であれ)、
自由主義の論理から言って、容認できない。
書かれるもの、描かれるものは、それがなんであれ表現というほかないだろう。

結論づけると、個人が行為次元で自由を侵害されるわけではない表現と、
実際に被写体のいる表現は、論理的に区別されてしかるべきである。

最後に付け加えると、この論理は、差別表現や危険思想の流布などを
肯定する可能性があるという批判も考えられる。
僕個人は、今まで述べてきたような論理で、表現に関しては差別も危険思想も
肯定されるべきだと考えている。

「私は君の言うことに賛成しない。
しかし、君がそれを言う権利は命を賭けても守る」(ヴォルテール)
という言葉のように。
とはいえ、これらに関してはスレのテーマと異なるのでひとまず置いておく。











473 名前:イモー虫[]
     投稿日:2009/01/09(金) 14:42:14 ID:G/cU3wRK


そんな難しい言葉羅列しなくてもさ、これで簡潔に話は終わる↓

「児童の権利の擁護範囲」に二次は含まれない。
何故ならばキャラクターに人権はないから。
人権(このスレの場合「児童の権利」)は人間に与えられるもの。
『絵は人間(児童)かよ??』って話。











487 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/09(金) 23:41:45 ID:U/sG59/l


ドゥオーキンのような原理的な反ポルノ論者は、
二次元の空想ポルノによって女児一般が「表現されること」によっても、
女児の人権が侵害されると主張した。
(ドゥオーキンの場合は、女児というより女性一般だが)

要するに、女性を性的に略取することを表現することで、
すべての女性の人権を侵害するといった類の議論で、
「二次創作物の流布に至るまでが実在の児童の人権を侵害する」
という主張につながりうる。

人権の範囲を策定する社会規範(彼の言葉を借りれば、感情論)が、
児童の「二次創作物によって表現されない権利」を認定するのであれば、
空想ポルノも一様に規制すべきであるという議論が可能になる。

これに対して、規範の適用できる範囲は、行為の次元のみであって、
規範を形成する表現の次元においては、社会規範は適用されないと僕は論じた。











488 名前:イモー虫[]
     投稿日:2009/01/10(土) 00:18:16 ID:eyBXsM6P


そんな難しい話で世間が納得(同意)するとは到底思えない。

てかこの


『二次元の空想ポルノによって女児一般が「表現されること」によっても、
女児の人権が侵害されると主張』


部分が理解不能。

人権というのは人間の権利。
『人間』じゃなければ女児(18歳未満の女性)などとは言えない。

絵は空想。実在しないもの。

“法的に人間の呼称”を絵に与えてはならない。

絵に人権を与えるようなもの。











495 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/10(土) 12:00:57 ID:RfYRAtAW


>そんな難しい話で世間が納得(同意)するとは到底思えない。

普通の人と議論するときは、創作物規制はけしからん、
ぐらいの話をしておけばいいと思うよ。


captain_nemo_1982さんの議論は、規制賛成派と反対派の
人権の範囲(社会規範)を策定する根拠の問題を論じているから、
それについて僕は個人的なコメントをしただけ。
なんの知識もない人間相手に、ややこしい話をしようとは思わないさ。


>人権というのは人間の権利。
>『人間』じゃなければ女児(18歳未満の女性)などとは言えない。


それは言葉の問題で、「ポルノ表現をされない権利」を女児一般が持っている、
と主張することもできる。
もっと言えば、児童ポルノが存在するだけで、
「ポルノが存在しない社会に生きる権利」を侵害された、ということも可能。
ちょっと詭弁臭く感じるかもしれないけど、権利は必ずしも
個人に還元できないこともあって、例えば似たような理屈だと、
ポイ捨てが罰せられるのは、「ゴミのない町で生きる権利」を
侵害しているからだ。

要するに、規制派は二次元の女性に人権を認めようとしているのではなくて、
あくまで現実の女性の人権が、ただポルノが存在することによって、
侵害されているのだと主張しているにすぎない。

それに対して、僕は、表現を規範によって制限するべきではないという、
簡潔な理屈で反論しているだけ。
ただ、規範とは何か、表現の自由とは何かというところを掘り下げないと、
前提が共有できない可能性があるので、
ああいうくだくだしい書き方になった。




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表現は、 「規範決定の判断材料」 として理解されているわけでもなく、機能しているわけでもない


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613 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 07:46:11 ID:DSe7YDU4

>>468-472

>>僕は空想ポルノ規制と実写ポルノ規制の間には、
>>問題に質的な差があると考えている。


その見解は、表現の自由の有用性に言及した考察において、
一つの到達点であると評価できる。
しかしながら、それをもって 「表現を規範によって制限するな」 
と言うならば、実態としてその理念が現実社会に根を下ろし、
システマチックに運用されていることが条件であると考える。

世上に流通する様々な表現は、「規範決定の判断材料」 として
理解されているわけでもなく、機能しているわけでもない。
それらは基本的に供給する側も消費する側も
市場原理、快楽原則に則って使役されているのであり、
仮にその理念が副次的にしろ実現するとするならば、
あらゆる表現は規範の判断材料として様々なレベルでグラデーションを
形成しながらバランスよく頒布され、万人が偏り無く目を通し評価を
下すというシステムが存在し、機能していなければならない。

そのような市場原理に逆らう形での流通は、国家権力の
強大な介入無しに実現できるとは考えがたい。
もしくは、万民がその崇高な理念を理解し、
満遍なくバランスよく出来る限り数多くの表現に、
理性的に接すると言う努力を保持し続けなければならない。

規範決定の判断材料として比較的機能しうると思われる
報道メディアや言論・思想などの分野においてすら、
市場原理、快楽原則から自由であるとは到底言えない。


614 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 07:47:24 ID:DSe7YDU4

話が性表現ならなおさらで、大概は性欲充足目的としての実用性のみが
要求されると言って過言ではなく、そのような目的において使役される事が、
対象となる集団、たとえば児童にとって不快、屈辱であると感じるならば、
  (前述の通り、必ずしも児童本人がそう感じる必要は無い)
「影響を及ぼしているのだから行為以外の何物でもない」 と解釈されても
無理は無いのではないか?

となれば、「表現は規範で制限すべきではない」 なる物言いは、
「そういう社会が実現してからの話」 という反論を即座に呼び込むことになる。

>>将来的に規範を変化させうる「表現」については、
>>制限するすべきでないからである。


「制限されたが最後、その表現に内包される規範は2度と陽の目を見ない」
という前提があると思われるが、蟹工船やチャタレイ夫人の恋人が
規制後年月を経て完全に復活した歴史的事実と矛盾する。
もっともこれらの例は、表現自体が規範の変化を引き寄せたと言うより、
他の様々な要因によって規制された表現が許容される時代が
到来したと理解されるべきであろう。

であれば、表現のみが規範の判断基準の役を担う必要は無く、
仮に反社会的に突出した規範を提示していたとしても、
それは民主国家において国民主権を代行する国家が
基準を示すと言う形態をとらざるを得ないと考える。



616 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 07:48:15 ID:DSe7YDU4

ちなみに、俺は児童を性の対象とする創作表現が、直ちに児童の人権を
侵害すると言う社会の合意形成には、いまのところ至っていないと思う。
差別表現などがタブー視されたのは、同和団体や障害者団体が
過激な運動方針でマスコミなどに働きかけたと言う側面が強い。

しかし、80年代のフェミニストによる性の商品化反対運動は、
「女性を差別する表現にステッカーを貼る」 という穏便な運動方針が
仇となったか、マスメディアを屈服させるに至らず、
また全くと言っていいほど国民の支持を取り付けることも出来なかった。
大人の女性が自発的に性的イメージを露出する行為を、
人権侵害と捕らえるのは流石に無理があったということだろう。

児ポ規制推進運動も似たり寄ったりの穏便さであったと思われるが、
運動が始まってから10年足らずで法規制にこぎつけてしまった。

同じ性の対象でも児童となれば話は別とばかりに世論は同意を示したと
言うことであり、今はまだ合意が形成されていないとしても、
児童の人権の範囲がこの先拡大の一途を辿るならば、
創作表現規制は時間の問題であると考える。


618 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 07:49:19 ID:DSe7YDU4

これだけの論考に一方的にケチをつけるだけでは不公平なので、
俺の方からも表現の自由に対する見解を述べておく。
といっても、積極的に変革を求めると言う動機は持ち合わせていない為、
単なる現状追認となってしまうが、先に述べたとおり、
「規範の判断材料としての表現」 という側面は、国民主権を代行する
国家権力がその基準を示すと言う現行のシステムで特に問題はないと考える。

実際、児ポ表現や暴力表現に対する規制は昔に比べ強化されてるが、
性表現全体の自由は拡大しつづける一方であり、これは結局のところ
国家権力にしても判断基準は社会通念に追随せざるを得ないと言う
現実を示している。

それよりも、表現規制に関してはむしろ表現者の自省をこそ促したい。
一時期、鬼畜系カルチャーに傾倒していた経験から言えば、
反社会表現の存在意義とは、反社会的であるという一点に尽きる。
 (技巧やイマジネーションと言った文化的・芸術的意義については、
   必ずしも反社会表現にて発揮される必要は無い)

となれば、規制派のクレームは、表現者にとって勲章である。
社会通念から逸脱していると公に認められたと同じことだからだ。
なのに、反社会表現に手を染めていながら、規制を受けたからと言って
社会体制の庇護を求めるとは、一体どういう神経なのか?志が低すぎる。

愚痴愚痴言ってないで、アングラに潜り込んででも初志貫徹するか、
法に抵触しない形で新しい表現方法を模索するなどの
したたかさを見せて欲しいね。


619 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 07:49:52 ID:DSe7YDU4


したたかさの一例 ↓


田原総一郎責任編集 朝まで生テレビ収録本
「日本はなぜ負ける戦争をしたのか」 (株)アスキー発行

猪瀬直樹  「(戦前は) 言論の自由が無かったからと信じられてるけど、
         言論の自由はかなりの部分まで認められてたんですよ。
         例えば発禁になるでしょ。すると、「発禁の書」 って広告出して
          また売るんですよ。そうするとかえって売れた。
          だって要するに伏字を増やせばいいわけだから。

          いろんな表現の仕方があったし、情報的にかなりきちっとした
         見通しを書いた本もいっぱい出てます。
         当時、日本とアメリカが戦争したらどうなるかと、そういうことを全部
         シミュレーションした小説がいっぱい出てますよ。
         かなり正確に書いてます」 

 もちろん、ギミックとして反権力のスタンスを取るのは構わない。
仮想敵を明確に定めることは、創作のモチベーションにもなるだろうし、
それだけで表現の社会的価値は(マイナス方向にだが)上乗せされるだろう。
国家権力の暴走をけん制する役目も果たせるかもしれない。

そして、そのような規制側との共生関係を創作者、受け手が許容することで、
表現規制に関する問題はほぼ解決できると考える。



622 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 08:07:42 ID:DSe7YDU4

したたかさの一例 その2 ↓ 売国奴スレからのコピペ

その点、映画 「バトルロワイアル」 の監督、故・深作欣二は格が違う。
ご存知のとおり、「バトルロワイアル」 は「中学生42人が殺しあう映画」 という
過激な内容で規制論議を巻き起こしたわけだが、
深作監督はそんなことにお構いなく、

 「私には暴力がいけないと言う思いは全くない」
  
と堂々と言い放ち、同じ口で
 
 「この映画はぜひ子どもたちに見て欲しい」

などとも公言する。

深作監督にとっては、バイオレンスこそがヒューマニズムの真髄なのであり、
「中学生42人が殺しあう映画」 でその暴力賛美思想を子どもたちに
刷り込むことが日本の明るい未来につながると本気で信じていた節がある。

また、社会良識との距離をきっちり視野に入れ、

 「R-18なら喧嘩もしたが、R-15くらいつかんかったら、
  『それほど安全に撮ったのか?』 と軽蔑されても腹が立つ」

と、確信犯的にR-15指定を前提とした映画を作っておきながら、規制推進派の
故・石井紘基議員 (民主党) と正面切って渡り合い、
話題を盛り上げて大ヒットにつなげる抜け目のなさ。

反社会表現創作者の矜持ってのは、こういうところに立ち表れるんだよ。
規制だなんだって騒がれるのは、かえって勲章だ、
くらいに胸張ってもらわないとね。





                  (2011/3/28 entry)



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自由主義国家は規範を示す主体ではなく、国民の自由意志を体現する存在でなければならない


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705 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 21:00:28 ID:HuGO4dL1


>世上に流通する様々な表現は、「規範決定の判断材料」 として
>理解されているわけでもなく、機能しているわけでもない。
>それらは基本的に供給する側も消費する側も市場原理、
>快楽原則に則って使役されている

これが表現の自由と規範の問題を考える上での、最大のミソだと思う。

先に書いたように、自由な社会においては、諸規範は自由意志によって
選定された社会の紐帯であるという以上の意味を持たない。

価値観が圧倒的に多様化した近代において、キリスト教社会や
古代ギリシャがそうだったように、規範を形而上学から導かれる
普遍的道徳や倫理と一致させることは不可能だからである。

われわれが自由意志というとき、それは理性や信仰といった
形而上学的な判断を下す知性だけでなく、
快楽や利益を追求する欲望も含まれている。
そして、欲望と倫理の間の「バランス」は、
個人が自分自身の意志において決定するしかない。

キリスト教社会であれば、そうしたバランスは信仰、
もっと言えば教会によって決定されたのだろうが、
いまや、キリスト教倫理のような形而上学的基準は社会に存在しないし、
個人の意志より上位の基準を排除することが、自由主義の原理となっている。
(哲学者のリチャード・ローティは、『リベラル・ユートピアという希望』の中で、
こうした形而上学的原理を持たない倫理を「原理なき倫理」と呼んでいる)

だから、「国家の強力な介入無しに実現できるとは考えがたい」
というのはむしろ逆で、国家の介入がないことが、
まさに自由意志によって規範が形成される前提条件である。

市場原理や物質的快楽と、理性や信仰といった精神的価値が、
表現のアリーナの中でぶつかり、闘争し、
均衡する場所に自由主義社会の規範が存在する。




706 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 21:00:57 ID:HuGO4dL1


>話が性表現ならなおさらで、大概は性欲充足目的としての実用性のみが
>要求されると言って過言ではなく……

抽象的な議論になったので、表現と社会規範の形成の問題に関して、
特に性的規範に的を絞って、具体的に掘り下げてみたい。

ポルノが規範を形成するというと、多くの人は首を傾げるだろうが、
こと性に関する今日の社会規範は、直接ないし間接に
性表現が形成したと言っていい。

ポルノや風俗画と社会規範の発展の関係を分析した著作としては、
エドゥアルト・フックスの『風俗の歴史』が有名である。
彼によれば、道学者(モラリスト)や宗教家の説教が
社会規範を作り出すというのは、
「精神病院行きの道学者の意見」でしかなく、実際には経済的利益、物質生活、
そして快楽原則こそが、社会規範を形成する土台なのだという。

マルクス主義に影響を受けたフックスの所説を引かずとも、
快楽の追求が規範の形成に決定的役割を果たしたのは自明である。
例えば、ルネッサンスにおける肉体的快楽の賛美を主導した著作、
ボッカチオの『デカメロン』からブラントームの『艶婦伝』にいたるまで、
その作品としては性的快楽を描いたものだが、
同時に性的規範を大きく変化させてきた。

彼らほど極端でなくとも、今日に至るまでつづく自由恋愛という性的規範は、
スタンダールやゲーテの恋愛小説、教養小説が作り出したものであろうが、
社会規範の変化を念頭に置きながら、
彼らの著作を消費したものはほとんどいないだろう。

したがって、自由意志による規範の形成を掲げるならば、
自由な快楽の追求も、自由意志の中に含められるべきなのは言うまでもない。
快楽の追求を度外視して、キリスト教的性倫理から今日の性的放蕩への変化を
合理的に説明することはできないだろう。
規範とは、物質的快楽と精神的価値の均衡において実現するのであり、
どちらか一方のみでは片手落ちとなる。





707 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 21:02:52 ID:HuGO4dL1


>たとえば児童にとって不快、屈辱であると感じるならば、……
>「影響を及ぼしているのだから行為以外の何物でもない」 と
>解釈されても無理は無いのではないか?

以前にも述べたように、これはアンドレア・ドゥオーキン以来の
反ポルノ運動のロジックだよね。
反論が的確で非常に助かる。この部分も、僕の議論のミソ。

もし、表現次元の行為、アリーナでの戦い自体が個人に不快感を与えることを
問題としてしまうなら、表現次元と行為次元の間の区別がなくなり、
規範の決定が上位の規範に束縛されるという、
自由主義の否定を帰結してしまう。

しかしだからといって、個人の人権を直接侵害する表現を
放置することはできない。
虚偽の事実による名誉権の侵害や、私人の生活の暴露による
プライバシー権の侵害は、自由と自由の衝突の典型的な例であり、
「他者の自由を侵害しない限りにおいての自由」という
ミルの自由の原則に照らし合わせて、
自由の範囲から除かれなければならない。

したがって、他者、つまり個人や私的団体の権利が、
直接的に表現によって侵犯を受ける場合と、
アリーナで自己の価値観や立場が攻撃を受け、
それによって受ける不快感を区別する必要がある。

非常に大雑把な言い方をすれば、後者はあくまでアリーナの中での
戦いであるのにたいし、前者は場外乱闘にあたる。

例えば、名誉権は個人や法人、法人相当の団体には認められるが
  (個人以外にはほとんど認めないという見解もある)、
アメリカ人、女性、東京人といったような、ある立場や
漠然とした集団には適用されない。
もしそうでなければ、表現の自由は実際には内実のない概念となるだろう。

ロナルド・ドゥオーキン(A・ドゥオーキンではない)が『法の帝国』で
論じているように、表現の自由は民主主義の意思決定プロセスを
担保する権利であり、表現の自由の範囲を民主主義的な意思決定によって
自在に変更可能であれば、それは民主主義の自己否定に容易につながる。
だから、このあたりのジレンマの解決は、
表現の自由を論じるうえで欠かせない問題であるといえる。

抽象的な方向へ議論がずれたけど、要するに、
「児童一般」「女性一般」が受ける不快感というのは、
アリーナの中の戦いに関する問題なのだから、
それに反対する闘技によって解決しなければならない。




708 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 21:03:16 ID:HuGO4dL1


>「制限されたが最後、その表現に内包される規範は2度と陽の目を見ない」
>という前提があると思われる

ごめん。ちょっと説明が足りなかったかな。

『蟹工船』やプロレタリア文学の規制は、
自由主義以外のロジックによって行われた。
社会全体が国家主義や未成熟な近代社会の段階だったわけで、
これは時代的な問題。

『チャタレイ夫人の恋人』は、悪徳の栄え事件の判例の延長にあるけど、
この裁判は日本国憲法施行から間もない時期に行われたので、
表現の自由があまり議論されなかった。
自由主義以前の論理、憲法よりも大審院判決との連続性が
問題になったとさえ言える。
(このあたりの経緯については、captain_nemo_1982さんには
釈迦に説法かもしれないけど、奥平、吉行、環『性表現の自由』をお勧めする)

こうした表現自体は、歴史的に自由主義(特に表現の自由)が
受容されるにつれて解放されていったわけで、
当然、規範によって排除された表現も、
規範の変化によって認められ、復活することはある。

ただ問題になるのは、そういう規範の変化をどのようにして行うのか、
ということ。
それが自由主義と、自由主義以外の社会のメルクマールになると思う。
これについては次の段落で。




709 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 21:03:50 ID:HuGO4dL1


>表現のみが規範の判断基準の役を担う必要は無く……
>民主国家において国民主権を代行する国家が基準を示すと言う
>形態をとらざるを得ない

これが最大の問題。

社会的に認められる規範(または規範の決定主体)の変化には、
いろいろな方法がある。
前近代において優勢を占めたのは、「力の論理」だった。
例えば、ケルト部族が持っているドルイドや精霊信仰といった規範を
変化させたのは、キリスト教国の侵略であり、
彼らが武力によってキリスト教倫理の正当性を示したからだった。

自由主義の要諦は、この力の論理を否定し、
自由意志による決定でこれに変えることだ。
確かに、力の論理による支配から、自由主義・民主主義の論理へ
世界を転換させるためには、力でもって力の論理にあたる必要があった。

フランス革命や、アメリカ独立戦争、さらには太平洋戦争もそうだろう。
そしてまた、自国の自由主義・民主主義の論理を維持するために、
対外的に力でもって戦う必要もあるだろう。
しかしともかく、自由主義内部の論理としては、
個人の自由意志が最上段に置かれる。
  (内側へ自由主義、外側へ武力というのは、
    なんとなくネオコン臭い感じがするが……)

だから、自由主義国家は規範を示す主体ではなく、
国民の自由意志、言い換えれば表現のアリーナによって形成された規範を
体現する存在でなければならない。
信仰や力、血統によって上位に立つ権威者が、
規範を決定する国家とは、根本的に異なっている。

いったん形成された規範によって、行為の次元でパターナルとして
振舞うという点では一緒だが、形成のプロセスにおいて、明確な違いがある。
  (ただし、自由主義のもとで形成される規範が、
    どの程度のパターナリズムを許容するかという点については、
     別の議論が必要だろう)

結論付けると、国民の主権を代表する国家は、規範にもとづいて
行為を制限するが、規範の形成過程、
つまり表現に対しては、原則的に介入すべきではない。
以上の「表現の自由=民主主義」という見解は、
ここまで原理主義的な形ではないにせよ、
前出のロナルド・ドゥオーキンのほか、
ジョン・ロールズも同様の立場をとっている。




710 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 21:04:14 ID:HuGO4dL1


国家権力も結局は表現の多様性の拡大に抗しきれないだろうというのは、
僕も同じ立場。
「世界史は自由の進歩である」(ヘーゲル)というように、
結局、人間の自由な着想を、当局者の良識やら世間一般の常識で
抑えるのは不可能だ。

しかし、長期的にはわれわれは皆死んでしまうのであって、
自由な表現が最初から行われていたならば生まれたであろう表現や進歩を、
規制によって圧殺したり遅らせたりするのは、やはり避ける必要がある。


>反社会表現の存在意義とは、反社会的であるという一点に尽きる。
>(技巧やイマジネーションと言った文化的・芸術的意義については、
>必ずしも反社会表現にて発揮される必要は無い)

これはダウトかな。
ゲーテにせよスタンダールにせよ、反社会的表現をするために
あれほどの著作をものしたわけではない。
しかし、まさにゲーテが自分の著作の中で言ったように、
「あらゆる偉大な真理は嘲笑の渦中より生まれいずる」
 (ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』)
のであって、後の時代の規範ともなる偉大な表現は、
前の時代の規範にしばしばそむくものだ。

スタンダールの価値はその時代の規範に反抗したことによるのではなく、
次の時代に残る普遍性を持っていたからであり、
反社会性は付属物にすぎない。
サヴォナローラの狂信がなければ、フィレンツェにはボッティチェリと並び立つ
美術が何倍も生まれたかもしれない。




>猪瀬直樹 「(戦前は) 言論の自由が無かったからと信じられてるけど、
>         言論の自由はかなりの部分まで認められてたんですよ。

猪瀬直樹の言うことも一理あるけど、
一方で、多数の転向を強いられた文学者や哲学者がいるのも
事実だからなあ……。

先にあげたエドゥアルト・フックスの『風俗の歴史』だって、
翻訳者の安田徳太郎は戦前に翻訳原稿を没収されて、危うく破棄されかけた。
(ただし、管理がずさんだったために、破棄されず手元に戻ってきたようだ)
安田の盟友だった山本宣治も、性風俗研究で革新的な研究をしながらも、
イデオロギー的な理由で弾圧を受けてるしね。
そのせいで中座した研究も多い。




711 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 21:04:52 ID:HuGO4dL1


>反社会表現創作者の矜持ってのは、こういうところに立ち表れるんだよ。
>規制だなんだって騒がれるのは、かえって勲章だ、
>くらいに胸張ってもらわないとね。

なんだかんだ書いたけど、君のそういう態度は嫌いじゃない。
もちろん、社会制度を考える上で、創作者としての心構えを
持ち込むわけにはいかないけど。

上で挙げた『性表現の自由』で吉行淳之介が述べていることなんだが、
「四畳半襖の下張裁判」だと、「田山先生の作品をポルノにしてやろう」
という悪戯心が被告・検察の両側にあったそうで、
終始「和やかなムード」で裁判が進んだそうだ。

まあ、これも判例になっているんだから困ったものと言えば
困ったものなんだが、そういう反社会的表現に対する確信犯的な覚悟は、
田山花袋にせよ吉行淳之介にせよ、敬意に値するものなのかもしれない。





               (2011/3/29 entry)


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captain_nemo_1982 at 16:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

あやふやな 「個人の意志」 の無謬を無条件に肯定する 「自由主義思想」 が、果たして万人の利益を約束できるほどの普遍性を備えているのかという疑問が発せられねばならない


青識亜論氏との議論


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 このエントリは 内閣府スレ★10 より引用しました




741 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 13:54:23 ID:f9AyjlO9

「自由主義」 の枠内であれば理念として整合性もあり
ケチのつけようが無いんだけど、「大衆の原像」 を的確に繰り込む
視点がないと、思想として血が通わないと思うんだよね。

>>個人の意志より上位の基準を排除することが、
>>自由主義の原理となっている。


>>国家の介入がないことが、まさに自由意志によって
>>規範が形成される前提条件である。


俺がもっとも気になるのはこの点で、「何物からも干渉されない
独立した個人の自由意志」 が万民にあまねく存在し、しかも

「欲望と倫理の間の『バランス』」 を、「個人が自分自身の意志において決定」

出来るほどの知性・理性を最初から備えているということが前提となっている。

しかし、人間は 「他人に迷惑をかけてはいけない」 という黄金律さえ
理解していれば、それだけで倫理的に振舞えるほど強くも賢くも無い。
「やってはいけない」 と知りつつも誘惑に負けてしまうのが人間である。

そもそも、「迷惑」「倫理」の解釈自体が主観に左右されるのであり、
下手をしたら最低限の黄金律すら平然と無視するような人間の横行が見聞され、
だからこそ現実社会に大小の利害や摩擦が発生し続けるのである。


743 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 13:56:46 ID:f9AyjlO9

となれば、そのようなあやふやな 「個人の意志」 の無謬を
無条件に肯定する 「自由主義思想」 が、果たして万人の利益を
約束できるほどの普遍性を備えているのかという疑問が
発せられなければならない。したがって、

>>いまや、キリスト教倫理のような形而上学的基準は社会に存在しない

と言うよりもむしろ、自由主義思想も他にある様々な原理の一つに過ぎず、
それはキリスト教的倫理などの他の原理と並列に配置され、
「万人の利益のため」 という有史以来の普遍性をもつ最上位原則により
時代や地域の特性に配慮した上で取捨選択されるべきであろう。

 (形而上という言葉の定義が俺の理解しているところと
   相違があるように思えるが、ここでは君の文脈に従う)


745 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 13:58:02 ID:f9AyjlO9

>>快楽の追求が規範の形成に決定的役割を果たしたのは自明である。

一方向にしか作用しない因果関係が存在していたと言うこと?
時代の風潮を創作者が敏感に感じ取り、表現に反映させると言う
側面を併せ持つ、相関関係をなしていたのではないだろうか。
「歌は世につれ、世は歌につれ」 って奴だね。
双方向の情報インフラが急速に充実しつつあるネット社会では、
なおのことお互いの情報収集が活発になっていくことだろう。

まあそれはそれとして、
性的規範で言えば、その役割は規範の緩和という一方向のみに
働いてきたという現実があるわけだよね。
社会倫理的観点からの対抗力が働くことがあったとしても、
自由意志の集合のみで、一度拡散を許した性的規範を
再び一定の枠内に押し込めることは不可能。
 (その原因は性的表現の強烈な誘引力に発する)

情報インフラやテクノロジーが発達した近代であればあるほど
倫理意識や遵法意識の低い小悪党のやったもん勝ちになるだけで、
たいていは何らかの積極的な圧力の行使、時には権力の
手を介さずして、性規範を下方修正することは出来ない。

もっとも、一度規制を受けた表現が時代を経て許容されるという
実例も多数存在するので、場当たり的に倫理的立場から圧力をかけても
長期的には無意味であると言う反論もありうるだろう。
しかし、将来的に性的規範がどのように変遷するかと言う推測を
正確に立てることは不可能であり、その時代においては必然性が
あったという事情により正当化されるべきである。


746 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 13:59:16 ID:f9AyjlO9

>>自由主義の要諦は、この力の論理を否定し、
>>自由意志による決定でこれに変えることだ。


対外的だろうと対内的だろうと、自由主義の維持に
力の論理は不可欠であると考える。

「自由主義を否定する自由」 は容認されるのか?
如何に自由主義といえど、そのパラダイム内にとどまる限り、
それは不可能だろう。
すなわち、「自由のための圧力」 という逆説的論理を用いずして
自由主義はその体制を護持できない。

これは、あやふやな意志しか持ち合わせない人間まで一緒くたに
「倫理と欲望を客観視し、相対化し、理性により選択出来る」 という
前提をはめ込んでしまう事により生じる矛盾で、
児童保護と少年法厳罰化が同時に進行すると言う現象にも
同じような矛盾が見て取れる。

この矛盾を認識した上で、表現の自由を考えてみる。
表現に 「規範の選択肢」 という役割が与えられるならば、
その流通に市場原理や快楽原則に準じた偏りが発生してはならない。
それは 「表現の自由を否定する自由」であり、排除されるべきである。
ゆえに、あらゆるレベルで段階的に規範を提示する表現が
満遍なく流通するよう、国家権力が統制をかけなければならない。

もっとも、ある程度の理性と知識と想像力を有した人間なら、
極端に突出した表現を見て、段階的に中庸を知ることは可能だろう。
氷と沸騰したお湯の温度を知るだけで、目盛りを刻んで温度計を
作るようなものである。


751 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 14:05:07 ID:f9AyjlO9

しかしそれでもまだ解決しなければならない問題がのこる。
それは、表現の自由の理想を積極的に実現する為の意欲を、
判断する主体である国民が等しく有していなければ、
民主的に規範を作り上げると言うシステムが機能しないという事である。
「いけないと思いつつも誘惑に負けてしまう」 ような人間では、
規範選択の主体として任を与えるに不適当であるからだ。
すなわち、「規範とは、物質的快楽と精神的価値の均衡において
実現するのであり、どちらか一方のみでは片手落ちとなる。」


さらに、そのような個人個人による 「規範候補」 の多寡をどのようにして
社会が認識するかと言う技術的問題もある。
「面倒くさいから意思表明しない」 という人間の存在を黙認するようでは、
突出した価値観を有する集団 (たとえば宗教団体) の跋扈を
招くことは必至である。

以上を踏まえて表現の自由の理想を達成しようとするならば、
万民が主権を有する直接民主制を捨て、
賢人政治的体制を選択せねばならない。
一定の基準に達した 「理性的で確固たる意思を有する個人」 を選定し、
彼らが市場原理に基づき流通する表現を見て判断するという方法である。

そしてそれは、すでに議会制民主主義というシステムとして結実している。
もっとも、理知的な人間からいい加減な人間に至るまで、
成人に達していれば公平に選挙権が与えられる普通選挙制では、
 (禁治産者など、制限されている人間は除く)
ある程度ポピュリズムが幅を利かせてしまうのは止むを得ない。
科挙制度的選定といったプラグマティズムは、近代社会にそぐわない。
かといって、現実を変える有効な手立ても存在しない。
理想と現実の狭間で宙吊りになりながら、なんとかごまかしながら
やっていく他は無いと言うことだろう。


753 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 14:05:41 ID:f9AyjlO9

>>「児童一般」「女性一般」が受ける不快感というのは、
>>アリーナの中の戦いに関する問題なのだから、
>>それに反対する闘技によって解決しなければならない。


順序が前後するがこれがもともと本題。

コアな規制推進派の思想的背景がなんと名づけられてるのか知らないが、
仮に 「児童の人権真理教」 だとする。
「アリーナ」 において、どの原理を採用するかは状況に応じるべきであり
「自由主義」 も 「キリスト教的原理」 も 「児童の人権真理教」 も
公平に原理基準として選択を吟味されるべきである。
少なくとも、「自由主義」 のみを採用すべきと言う強制力は存在しないし、
「自由主義」 を選択したとしても、「選択基準としての表現」 を機能させる
システムは存在せず、受益の約束が履行される保証もない。

そして、仮に推進派が性表現全般においては 「自由主義」 の採用を
認めたとしても、児童に限っては 「児童の人権真理教」 を採用すべきと
主張することは十分ありうる。


754 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 14:06:04 ID:f9AyjlO9

今は無き総合格闘技のPRIDEでは、体重差が15K以上ある場合は、
4点ポジションにおける頭部・顔面攻撃を禁止とするかどうか、
体重の軽い選手が選択できるという特別ルールがあった。
状況によって、同じ攻撃がルール内であるか反則であるかが分かれていた。

4点ポジションとは、両手両膝をついたいわゆる亀状態の体勢のことで、
この状態の相手の頭部や顔面に攻撃を加えることは
非常に危険とされているのですが、反面KO決着が多くなり、
試合が非常にエキサイティングかつスリリングなものとなります。


「アリーナ」 において、「18歳以上」 の試合では 「不快感」 を
ルール内であると認めても、「18歳未満」 の試合では反則となる
特別ルールを適用するという選択肢が存在するのである。

>>表現次元と行為次元の間の区別がなくなり、規範の決定が上位の規範に
>>束縛されるという、自由主義の否定を帰結してしまう。

>>表現の自由の範囲を民主主義的な意思決定によって
>>自在に変更可能であれば、それは民主主義の自己否定に
>>容易につながる。


児童の性表現に関してのみ自由主義を否定すると言う特別ルールを採用し
その他の性表現については否定しない場合も、
やっぱり社会全体の自由主義が否定されたと評価されるのだろうか?


756 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 14:06:39 ID:f9AyjlO9

>>しかし、長期的にはわれわれは皆死んでしまうのであって、
>>自由な表現が最初から行われていたならば生まれたであろう
>>表現や進歩を、規制によって圧殺したり
>>遅らせたりするのは、やはり避ける必要がある。


摂氏233度氏によると、「規制のある社会にいる我々は、
規制の無い社会をうかがい知ることは出来ない」 そうだから、
その必要性がどれだけ切実さをもって一般に理解されるかだよね。

摂氏233度氏とは、2ch ニュース議論板に出没していた
小児性愛者を自認する理系の論客です



>>スタンダールの価値はその時代の規範に反抗したことによるのではなく、
>>次の時代に残る普遍性を持っていたからであり、
>>反社会性は付属物にすぎない。


その普遍性は、次の時代にならないと評価されなかったんでしょ?
「嘲笑の渦中」 にあったからには。

であれば、リアルタイムではやっぱり反社会的だったのであり、
その時代ではあるかないかも理解されなかった普遍性こそが
付属物に過ぎないと考える。

というか、俺の言ってることはそんな難しいことじゃなくて、
規制のある世界を狡猾に立ち回るための処世術を説いているんだよね。

規制社会に愚痴言ったって始まらない、世の中変えるよりも
自分を変えるほうがよっぽど簡単だし幸福も追求できる、と。

コアな規制反対派にとって見れば、単なる敗北主義として一蹴されそうだが、
それならそれで勝手にしてくれって感じだよね。


757 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 14:06:57 ID:f9AyjlO9

>>708

そこに書いてあることは、「他の様々な要因によって
規制された表現が許容される時代が到来した」 という
俺の主張と矛盾しないと思うんだが・・・・・・・

ただ、釈迦に説法って言うのは買いかぶりすぎ。
正直いろいろ勉強になるので、ご教示はありがたくいただきたい。



                 (2011/3/30  entry)


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個人の自由意志の集合体を規範とする以外に、自由な社会と民主主義を維持することはできない


青識亜論氏との議論


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759 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 14:08:03 ID:LZ4BGQsP


「私は君の意見には反対だ。しかし、君がそれを言う自由を命をかけて守る。」
――ヴォルテール

「自由とは常に、思想を異にするもののための自由である。
(Freiheit ist immer die Freiheit des Andersdenkenden.)」
――ローザ・ルクセンブルグ

「真理と自由にとってもっとも危険な敵、それはぎっしりつまった多数票だ。」
――イプセン(『人民の敵』)

「私はどのような時代に生まれても、自由を愛しただろう。
しかしこの時代においては、私は自由を至高のものとして崇めたいと思う。」
――トクヴィル

「他人が良いと思うことに従って生きることを強要するより、
本人が良いと思うように生きることを誰にでも許すほうが、
人類はずっと大きな利益を勝ち得るのである。」
――J・S・ミル

「世に最も美しいものは、 言論の自由である。」
――ディオゲネス




832 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 17:37:51 ID:LZ4BGQsP


>「欲望と倫理の間の『バランス』」 を、「個人が自分自身の意志において決定」
>出来るほどの知性・理性を最初から備えているということが前提となっている。

僕は自由意志というものが、知性や理性を前提とした概念だとは思わない。
最悪の愚か者が、欲望を完全に肯定するような、
モラリストから見れば「バランス」を欠いた決定をしたとしても、
それは彼の自由意志に基づくものだから、価値判断の対象にはならない。
モラリストが愚か者よりも優れているというのは、何が優れているかを判断する
より上位の形而上学的な基準が必要だが、
自由主義と民主主義をとる社会において、そういう上位の意志は存在しえない。

自由主義は個人の意志の無謬を前提しているのではなく、
むしろ正しさと過ちの基準を、
諸個人の意志によってしか判断できないという認識から出発する。

誤解を恐れずに言えば、「正しい規範」など存在しないという考えが
根底にあるわけだ。
陳腐な言い回しだが、「人間は万物の尺度」なのであり、
キリスト教社会のように、より上位の倫理的存在を基準にして、
「正しい」方向へ社会を導くという試みは、
無数の価値観が混在する「神々の闘争」(ウェーバー)である近代社会において、
不可能となった。

大雑把な言い方になるが、自由主義者は個人の自由意志から
「正しい規範」が生まれると主張するのではなく、
個人の自由意志の集合体を規範とする以外に、
自由な社会と民主主義を維持することはできないと主張しているわけだ。



833 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 17:38:18 ID:LZ4BGQsP


>「万人の利益のため」 という有史以来の普遍性をもつ最上位原則により
>時代や地域の特性に配慮した上で取捨選択されるべきであろう。

万人の利益のためというのは非常に曖昧な言葉だけど、
ベンサム的な「最大多数の最大幸福」の意味でいいのかな?

そうなると、君が最上位原則と呼ぶものは、
利益とは何かという根本的な問題を孕んでいることになる。
必然的に、「効用(Utility・功利と同じ語)の効用とは何か、答えよ!」という
レッシングの有名な功利主義批判を帰結する。
利益とか功利をどのようにして計測するのかという問に答えない限り、
「万人の利益のため」という原則はなんの意味も持たない。

ベンサムは自然科学的な基礎から、人間の幸福を「快苦計算」することによって
算出可能であると考えた。
しかし、人間の幸福が自然科学的対象のように、
同質的なものであることを保障する根拠はどこにもない。
「君らの神の正気は一体どこの誰が保障してくれるのだね?」(『ヘルシング』)
というわけだ。

この功利主義批判は必然的に、自分の幸福の基準は
自分自身しかわからないという、方法論的個人主義の立場を要請する。
つまり、自分が幸福だ、好ましいと考える「規範」を各個人が提示し、
アリーナで戦わせ、自由意志の集合として規範を形成するしかない。

それぞれが好ましいと考える「選好」を集計することによって、
望ましい社会規範を決定する立場を、「選好功利主義」と言う。
この立場に立てば、上記のようなディレンマから逃れることが出来るが、
これはもはや自由主義となんら異なるところはない。

つまり、人間の自由を肯定し、パターナルとしての国家を拒絶する自由主義も、
人間生活を教理によって統制しようとするキリスト教倫理も、
同じく個人が好ましいと考える点で、等しく規範の可能性の一つである。
しかし、社会規範を決定する際には、選好功利主義の見地に立てば、
これらのあらゆる倫理をアリーナで戦わせ、自由意志において選好を表明し、
その「最大化」をはかるしかない。
結局、どのみち、あらゆる規範の基準から、
一つの社会規範を形成するメタ的な論理としての自由主義が必要となるわけだ。




834 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 17:39:05 ID:LZ4BGQsP


>社会倫理的観点からの対抗力が働くことがあったとしても、
>一度拡散を許した性的規範を自由意志の集合のみで、
>再び一定の枠内に押し込めることは不可能。

この問題に関して、自由主義者の発する答えは、
非常に簡潔なものになるだろう。

「なぜ、性的規範を一定の枠内に押し込める必要があるのですか?」

ポルノを受容し、性的放縦が肯定されるべきと答える人間が増えたならば、
それが次の社会規範を構成すればいいだけのこと。
性的規範の望ましい「枠」などというものは、存在しない。
なにが望ましいかを決定する上位の存在を仮定しない限り、
この問題に答えることは出来ず、上位の存在を仮定するならば、
それはその支配に置かれる諸個人の自由の死となる。


>すなわち、「自由のための圧力」 という逆説的論理を用いずして
>自由主義はその体制を護持できない。

一番最初に論じたように、「自由を否定する自由」を認めることは、
自由の自己否定につながる。
J・S・ミルの侵害原理は自由主義の論理的な基礎なので、
当然、内側に向けて自由主義の論理を取るといっても、
自由を否定する自由を警察権力などの社会制度によって抑止するのは、
自由主義の枠内のことだ。

こういう回避の仕方は、自己言及のパラドックスを解消するための
伝統的なやり方で、例えば有名な「クレタ人のパラドックス」も、
「クレタ人は嘘つきだ」と発言したクレタ人、
エピメニデスを論及の対象から除くことで、パラドックスではなくなる。
自由主義の問題にしても同じで、自由を否定する自由を除くことで、
矛盾ではなくなる。

自由主義者は、倫理や欲望を客観視する必要をまったく感じていない。
あくまで主観的な判断の集合体として、社会規範をとらえているからだ。
こうした考え方を主観主義と言い、社会思想においては、
ハイエクなどオーストリア学派の系譜を引く学者がこの立場を取る。




835 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 17:39:45 ID:LZ4BGQsP


>表現に 「規範の選択肢」 という役割が与えられるならば、
>その流通に市場原理や快楽原則に準じた偏りが発生してはならない。

これは>>709 の内容の繰り返しになるが、
主観的な判断の総体として規範をとらえる自由主義者は、
市場原理や快楽も自由意志の一部とみなす。
「偏りが生じてはならない」と自由主義者は考えない。

むしろ、「偏り」というときには、偏らない「バランス」
がどこかに存在すると前提されていることになるが、
そもそもそんなものはどこにも存在しないからだ。
そして、市場原理や快楽原則に従うのも、人の自由の一部なのだから、
「表現の自由を否定する自由」ではないことになる。


>すなわち、「規範とは、物質的快楽と精神的価値の均衡において
>実現するのであり、どちらか一方のみでは片手落ちとなる。」

物質的快楽に流される人間と、精神的価値を重んじる人間の両方が
価値形成のアリーナに投げ込まれるのであり、
その双方の闘技によって、なんらかの均衡が達成される。
どちらか一方の表現のみをアリーナの闘技の対象とするのであれば、
それは「片手落ち」になる。

しかし、性的放縦を招く、物質的快楽に重きを置いた表現が
アリーナにおいて勝ち残るのであれば、
それは単に新しい均衡が実現するというだけのことで、
「均衡」とは「バランス」を意味しない。




836 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 17:40:10 ID:LZ4BGQsP


>「面倒くさいから意思表明しない」 という人間の存在

周囲の規範に流されるというのも、それは一つの自由な選択。
ただ、宗教団体の価値観が、自由なアリーナで勝ち残るかどうかは
微妙な問題だ。
ウェーバーが「世俗化」ということを言ったように、
宗教の論理とそのほかの政治や性愛領域の問題は、
近代に入るにつれて、切り離されていく傾向があった。

人は必ずしも、自由意志において突出した価値観へ近づいていくわけではない。


>そしてそれは、すでに議会制民主主義というシステムとして結実している。

僕も議会制民主主義を否定するつもりはない。
ただ、議会というのは人々の間に形成された規範を汲み取り、
法律や制度を作る機関でしかない。
ある規範を正しいものとして国民に押し付けるのは、ただのパターナリズムだ。
もちろん、何度も繰り返しになるが、行為の次元において、
規範の範囲内で個人が自由を行使するように定めるのは、
国家の重要な任務の一つであって、それを否定するべきではないだろう。

しかし、行為を制限する規範自体を形成する、
表現の場に規範を持ち込むべきではないというのが、自由主義の論理。
規範の形成が自由意志で行われているからこそ、
規範に正当性が与えられるのであって、
そうでなければ個人を超えたなんらかの存在による
規範の押し付けにすぎなくなるからだ。


>コアな規制推進派の思想的背景がなんと名づけられてるのか知らないが、

僕も反ポルノ運動について詳しいわけではないが、
僕が知る限り、ポルノの存在自体を「女性性の商品化」と考え、
存在自体が女性の地位を貶めていると考えるのは、
いわゆる「ラディカル・フェミニズム」と呼ばれる立場に
分類されるのではないかと思う。
少なくとも、反ポルノ運動の旗手だったアンドレア・ドゥオーキンは
「ラディカル・フェミニズム」に一般的に分類される。

まあ、ラディカル・フェミニスト以外に反ポルノを先導している思想集団が
いるかもしれないけど、女児や女性の人権を
きわめて広く拡張・解釈しようとするのは、
やっぱりフェミニズムの文脈だと思う。




837 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 17:40:35 ID:LZ4BGQsP


>「自由主義」 も 「キリスト教的原理」 も 「児童の人権真理教」 も
>公平に原理基準として選択を吟味されるべきである。

すでに述べたように、規範の基準としてどれも平等にアリーナに
投げ込まれるというのは正しい。
しかし、アリーナでの闘技を保障する、
メタ的な論理としての自由主義はその前提だ。
闘技に勝ち残る可能性の一つとしての自由主義と、
闘技そのものを保障する自由主義は区別しなくてはならない。


>「自由主義」 のみを採用すべきと言う強制力は存在しない

それは確かに正しいが、アリーナでの自由意志による選択という考えを
棄却するのであれば、ラディカル・フェミニストたちは、
女性の自由意志を論理的な基礎におく、
自分たち自身の論理との整合性を失うことになる。
このあたりのフェミニズムの構造的批判は、
例えばデリダなどもすでに行っていて、ラディカル・フェミニズムが
ポストモダン・フェミニズムに取って代わられる一要因を作り出した。

ともあれ、ロナルド・ドゥオーキンが「平等な配慮」と呼んだように、
表現の自由においてすべての規範が平等に闘技(討議)の対象になることは、
民主主義と法的システムの根幹であり、
それを棄却するならば、規範の決定者による不平等な闘技を
要請する理由を提出しなければならないだろう。




838 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 17:40:59 ID:LZ4BGQsP


>仮に推進派が性表現全般においては 「自由主義」 の採用を
>認めたとしても、児童に限っては 「児童の人権真理教」 を
>採用すべきと主張すること

ロナルド・ドゥオーキンの「平等な配慮」や、
「自己の政敵が同様の要求をしたときに容認しうるもの」というロールズの
「正義の原理」によって、ただちに反論をすることができる。

アリーナの中で、ある表現に対し、対立する規範それ自体
(この場合ならラディカル・フェミニズム)によって、
ルールの上で排除したり特例処置をとることを認めるのなら、
それはその規範にもとづく自分達の表現自体が、
同じ様な取り扱いを受ける可能性について、議論しなければならない。
例えば、男根優位主義がアリーナで勝利した結果として、
フェミニズム表現を排除するといったことを、
認めるかどうかという問いである。

したがって、ある特定の規範に基づいて、
アリーナの中での特例措置を認めることは、
それ以外の規範による無数の特例措置の可能性を許容することになり、
結局、アリーナの中での闘技自体を無効化する。

PRIDEと表現のアリーナの違いは、PRIDEは中立的なルールを
策定する機関が存在するのに対し、表現のアリーナの場合、
ルールを決定する規範自体がアリーナの選手なのだから、
結局、他の規範をすべて排除するという行為を認めることになり、
自由意志による規範の決定を不可能にしてしまう。


>児童の性表現に関してのみ自由主義を否定すると言う特別ルールを採用し
>その他の性表現については否定しない場合も、
>やっぱり社会全体の自由主義が否定されたと評価されるのだろうか?

したがって、自由の論理にもとづく合理的な説明ができないかぎり、
自由主義の否定だと評価しなければならないだろう。
とはいえ、「どのような場合でも、自由が一時に失われるということは、
あるものではない」(ハイエク)というように、
ある規制が行われたからといって、社会全体が自由主義以外の体制に
移行したとはいえないだろうけどね。




839 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 17:41:26 ID:LZ4BGQsP


>その必要性がどれだけ切実さをもって一般に理解されるかだよね。

政治戦略的な問題としてはそうなんだけど、単純にその問題を議論するだけなら、
歴史的にどのようなことがあったかを基準にして、
将来を占うべきだ、というのが正しい解答だと思う。

ある経済政策が過去に失敗しているのに、
その政策を取るべきかどうかが議題にあがって、
「政策をとった先の世界を知ることが出来ないのだから、
その政策を取るべきか否かは無区別である」
と答える人間は、愚かだとしかいえない。


>であれば、リアルタイムではやっぱり反社会的だったのであり、
>その時代ではあるかないかも理解されなかった普遍性こそが
>付属物に過ぎないと考える。

反社会的な小説は多くあっただろうけど、
その中でも特にスタンダールやゲーテが残ってきたのは、
やはり小説に内在する普遍性が原因だし、
作品が受容された時代から見ても、スタンダールの「自由恋愛」が
反社会的に感じられたから人々が読んだのではなく、
反社会的であったとしても、「自由恋愛」という題材が
人々の心をひきつけたからだ。

反社会的な内容であっても、その内容自体が反社会性を超えて
受容されるというのはいくらでもあること。
そして、そうした新しい規範が次の時代を作っていくわけだから、
やっぱり、反社会性を単純に付与すれば
それで事足りるというものではないと思う。


>規制のある世界を狡猾に立ち回るための処世術を説いているんだよね。

処世術としては理解できます。社会の制度設計として正しいかどうかというのは、
また別の問題だと思うけど。



                (2011/3/31  entry)


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captain_nemo_1982 at 15:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

歴史に学ぶなら、表現物規制による文化破壊の危険性はより軽視されるだろう。


青識亜論氏との議論


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 このエントリは 内閣府スレ★11 より引用しました





289 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/18(日) 22:56:51 ID:PJVegCZl

>>最悪の愚か者が、欲望を完全に肯定するような、モラリストから見れば
>>「バランス」を欠いた決定をしたとしても、
>>それは彼の自由意志に基づくものだから、価値判断の対象にはならない。


「やってはいけないと知りつつ、欲望に負けてしまう」 と言うような
あやふやな個人による選択も自由意志と認められるのだろうか?
教師などによる児ポ事件には、大概この構図が当てはまると思われるが、
これはホンネとタテマエという二元論のみで単純化できるものではなく、
倫理と欲望、相反する2つのホンネが共存しうると考えるべき。

他にも、職務上の必要性や経済的理由などが倫理と衝突した結果
前者が選択される事例などは社会生活を営んでいれば頻繁に見聞、
時として自ら行為の主体とすらなりうるが、その場合、
どちらが個人の自由意志として規範に反映されるべきなのか?
 (この疑問は>>833 の選好功利主義や>>835 についても同様)

そのあたりをどうやって制度化するかの具体的な説明が何も無いから、
どうにも現実性を判断できないんだけど。
俺が 「自由の否定」 と言ったのは、そのようなあやふやな意志の
集計を社会の規範とすることが、自由主義の理念に
反するのではないかと言う事。
後述するが、自由主義がニヒリズムを内包するのであればその限りではない。



290 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/18(日) 22:57:36 ID:PJVegCZl

>>自由主義と民主主義をとる社会において、
>>そういう上位の意志は存在しえない。


観念論はともかく、現実の制度としてこの問題を考えるなら、
「2つのホンネのどちらを規範とすれば万人の利益にかなうか」 を判断できる
理性と知性の持ち主の意志を上位と位置づけるほかは無いだろう。

その判断にどう民意を繰り込むかは、一般生活におけるあやふやな意志の
行使に比べ、幾分かでも理性的・知性的判断が期待できる投票行動を
重要な指標とする以外に無いだろう。


291 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/18(日) 22:58:53 ID:PJVegCZl

>>そうなると、君が最上位原則と呼ぶものは、~
>>同質的なものであることを保障する根拠はどこにもない。


「万人の利益」 とは 「健康的で文化的で公序良俗の守られた社会の実現」 
のことであると解釈してもらって間違いは無い。
その範囲は、小は家族から大は国家まで、(例外的に地球規模で) 
様々な共同体や組織が考えられ、
「万人」 とは、その構成員を指すと言う事になる。

利益の基準に関しては、その方向性におおまかな社会の
合意があれば科学的に数値化されずとも、制度上の判断基準としては
十分と考える。
その方向性に向けて最善の策を選択するという以上に、
「万人の利益」 を追求する有効な方法は無い。

その判断が実効的であったかどうかは、国家レベルなら様々な経済指標や
生活満足度など各種論点における世論動向、最終的には選挙による
国民の意志表示の帰趨により総合的に判断されることだろう。


292 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/18(日) 23:00:09 ID:PJVegCZl

というか、自由主義は 「万人の利益」 を目的としないのか?
「人間の幸福が自然科学的対象のように、同質的なものであることを
保障する根拠はどこにもない。」 などという相対化で済む話だろうか?

「自由主義の目的は自由主義そのものであり、上位概念は無い」
というのであれば、それは狂信カルトと本質的にどう違うのか?

自由主義が 「万人の利益」 に対して無頓着であり、
市場原理や快楽原則を無批判に受容する立場であるとするならば、
それは多分にニヒリズムを内包、もしくはアナーキズムそのものと
理解しても良く、そのような原理主義的な運用は
万人の支持を取り付けることはできないだろう。

>>結局、どのみち、あらゆる規範の基準から、一つの社会規範を形成する
>>メタ的な論理としての自由主義が必要となるわけだ。


近代社会において、自由主義のエッセンスが最重要原則の
ひとつである事に異論は無いが、原理主義的運用に関しては疑問がある。
他の原則とのトレードオフ的運用で良質な部分のみを抽出すべき。



293 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/18(日) 23:01:48 ID:PJVegCZl

>>「なぜ、性的規範を一定の枠内に押し込める必要があるのですか?」

様々な立場があるだろうが、俺が最も重要に思えるのは、
「性愛領域が生産領域に侵犯することへの防御機能」

生産も性愛も共に 「万人の利益」 には欠かせない要素であるが、
生産領域が主に公的で集団の秩序を必要とするのに対し、
性愛領域は個人的で非常に強い誘引力を有しており、
その秩序のありようは生産領域のそれとは全く質が異なる。

よって、生産領域を効率的に運営する為に必要な秩序が、
性愛領域の無秩序度の拡大により侵害され、破壊されるのでは
ないかという警戒心が、「時代を象徴し、また時代に影響を与える」
性表現への不安感、嫌悪感として立ち現れてくる。

>>ポルノを受容し、性的放縦が肯定されるべきと答える人間が増えたならば、
>>それが次の社会規範を構成すればいいだけのこと。


生産領域の秩序紊乱は一部の人間だけで可能。
社内で管理職の立場にある人間が部下とおおっぴらに不倫していれば
周りの人間関係がぎくしゃくするようなものである。
大多数の人間がそのような風紀のありようを承認する規範が
すぐに構築されるならそれでもいいだろうが、
ある程度の期間を要するのであればその間中秩序が
かく乱され続けるわけであるから、前もって社内恋愛を禁じておくなどの
防御メカニズムが働く事は合理的である。

性的放縦が肯定される事自体は時代の流れもありやむを得ないだろうが、
急激な混乱を招かぬよう漸進的に行うべきである。
したがって、急進的で過激な表現が規制されることもまたやむを得ない。



294 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/18(日) 23:03:18 ID:PJVegCZl

>>一番最初に論じたように、「自由を否定する自由」を認めることは、
>>自由の自己否定につながる。


他の主義信条ならそれでもいいだろうが、自由原理主義に限っては
自己否定というより、むしろ自己実現なのではないだろうか。
「幸福の基準は無い」 などというニヒリズムを披瀝して、
自由原理主義がどのような結果を招くかに対して無責任な姿勢を
呈しておきながら、保身だけはきっちり図るというその態度は
いささかセセこましい印象を抱かざるを得ない。

しかも、そのような例外を許容するなら、拡大解釈で
つけこむ隙を与える事にもなる。


295 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/18(日) 23:04:15 ID:PJVegCZl

>>周囲の規範に流されるというのも、それは一つの自由な選択。

ニヒリズムに立脚した、衆愚政治の全面肯定であると受け取っておく。
「幸福の基準は無い」 以上、その先に何があるかについては
全く意に介さないのだろうな。

>>規範の形成が自由意志で行われているからこそ、
>>規範に正当性が与えられるのであって、
>>そうでなければ個人を超えたなんらかの存在による
>>規範の押し付けにすぎなくなるからだ。


仮に自立した個人による意志の集合で新たな規範が形成されたとしても
それに合致しない個人にとっては押し付けにしかならないと思うんだが。

>>いわゆる「ラディカル・フェミニズム」と呼ばれる立場に
分類されるのではないかと思う。


ラディカルフェミニストと言えば、 「全てのセックスは強姦」 などと
極端な事を言う人達と言う印象があるが、児ポ規制に関しては
別の行動原理が働いているように思える。

たとえばアグネス・チャンなんかはアグネス論争の当事者であることからも
わかるように、その立脚点は肥大化した母性であり、
これに関しては他の推進派も大差ないのではないか?
人脈的にはつながる部分も多々あるんだろうけど。


297 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/18(日) 23:10:52 ID:PJVegCZl

>>ある特定の規範に基づいて、アリーナの中での特例措置を認めることは、
>>それ以外の規範による無数の特例措置の可能性を
>>許容することになり、結局、アリーナの中での闘技自体を無効化する。


その特定の規範が 「自由を侵害する自由を認めない」 という
自由否定排除の原則にのっかるように拡大解釈すればよい。
早い話が、「児童の不快感や嫌悪感」 に限り、それは
「他者の自由の侵害」 であると解釈するのである。

>>PRIDEと表現のアリーナの違いは、PRIDEは中立的なルールを
>>策定する機関が存在するのに対し、表現のアリーナの場合、
>>ルールを決定する規範自体がアリーナの選手なのだから、


自由主義体制にも 「自由を否定する自由は認めない」 という不可侵のルールを
策定し、強制力を行使する何らかの機関が存在するはずである。

PRIDEの場合は、「体重差による不利」 に配慮して、
体重が軽い選手 = 弱者がルールを選択する権利が与えられている。
これは、格闘技において体重差の不利益は広く認知されているからで、
それを無視することは格闘技の公平性を大きく損なう事になる。
4点ポジションルールにおける特例は弱者にルールの選択を委ねることで
競技自体の正当性を保守しようと言う試みであり、
この意味において 「ルールを決定する規範 = 選手」 と同義。

これを児童性表現に敷衍すると、弱者である児童に配慮して、
児童 (を代弁する大人) がルールを選択する権利を付与される事になる。


298 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/18(日) 23:11:51 ID:PJVegCZl

>>結局、他の規範をすべて排除するという行為を認めることになり、
>>自由意志による規範の決定を不可能にしてしまう。


これは、格闘技における体重差同様に、児童の人権がどう重要視され、
どのくらい広く認知されるかにかかっている。
それが極めて特別で限定的なものであるならば、
他の規範の排除容認につながるとは一概に言えない。

>>アリーナの中で、ある表現に対し、対立する規範それ自体
>>(この場合ならラディカル・フェミニズム)によって、
>>ルールの上で排除したり特例処置をとることを認めるのなら、
>>それはその規範にもとづく自分達の表現自体が、同じ様な取り扱いを受ける
>>可能性について、議論しなければならない。
>>例えば、男根優位主義がアリーナで勝利した結果として、
>>フェミニズム表現を排除するといったことを、認めるかどうかという問いである。


拡大解釈された 「児童の人権の侵害」 は 「自由の否定」 であると
みなせば、ラディカル・フェミニズム(俺の言う児童の人権真理教) は
対立する規範ではなく、自由を守る為の不可侵原則となる。

男根優位主義が 「児童の人権 = 不可侵の原則」 ほどの重要性を
獲得するならば、そのような問いも意味があるだろう。


299 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/18(日) 23:12:50 ID:PJVegCZl

>>政治戦略的な問題としてはそうなんだけど、
>>単純にその問題を議論するだけなら、
>>歴史的にどのようなことがあったかを基準にして、将来を占うべきだ、
>>というのが正しい解答だと思う。


歴史に学ぶなら、表現物規制による文化破壊の危険性はより軽視されるだろう。

バーミヤン石仏のような巨大遺跡ならともかく、個人や少人数の手による表現は、
弾圧されたり無視されたりしても後世の評価を待つ事が可能。
蟹工船など発禁処分後に復刻された幾多の書籍物、
天保の改革で衰退した浮世絵、ゴッホ、セザンヌ、ゴーギャン、モディリアーニなど
生前不遇を囲った画家などが例示される。

デジタル複製による保存が可能になった現代では、よりその可能性は
顕著となる事だろう。

経済政策など、ある程度力学構造が数値化可能な分野については同意。
ただ、それでも金融工学が失敗するなどの事例は多々あるようだが。


300 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/18(日) 23:13:26 ID:PJVegCZl

>>反社会的な小説は多くあっただろうけど、
>>その中でも特にスタンダールやゲーテが残ってきたのは、
>>やはり小説に内在する普遍性が原因


同時代に反社会性と普遍性が同時に評価されるってのが
どうにもイメージできない。
で、スタンダールは読んだ事が無いし、当時の評価なども
知りたかったので調べて見たんだが、



松岡正剛の千夜千冊『赤と黒』上・下 スタンダール
   (web 魚拓取得不可のため、web ページのキャプチャ画像)

  1822年に有名な『恋愛論』を発表するのだが、
  なんと11年間に売れたのはたった17部なのである。
  「ぼくの作品は1880年か1935年に読まれることになるだろう」
  と言っていた。
  それでよかったのである。それがスタンダールだった。


上の記述が本当なら、当時は普遍性どころか反社会性すら、
いやその存在すらまともに認識されていなかったと言う事になるが・・・・・・?
ゲーテに関しても、反社会性は作品よりむしろ人物像に対して
言及される事が多いようだな。


301 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/18(日) 23:15:50 ID:PJVegCZl

以上の主張を要約する。

●自由主義を具体的にどのように制度化するかが不明。
  特に、あやふやな個人の意志をどう規範に反映させるかについて。
  観念論としての整合性について反論の余地は無い。

●自由主義は 「万人の利益」 を約束しないのか?
  であるならば、その目的は?

●自由主義の重要性に関しては同意するが、
  他の原理とのトレードオフ的運用にとどめ置くべき。
  原理主義的運用はニヒリズム、アナーキズムに直結する。

●性表現規制の理由の一つは、「性愛領域の無秩序による
  生産領域の秩序破壊」 に対する防御メカニズムの発動。
  もっとも、漸進的に性規範が緩和される事は否定しない。

●「自由を否定する自由の排除」 を認めるなら、
  拡大解釈された 「児童の人権」 の侵害もまた
  自由の否定であると言う解釈を呼び込む余地を与える。

●創作物規制は歴史的に大した事にはならない。


  

  

  



306 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/18(日) 23:30:53 ID:oG+hSf15


ネモさんありがとう。
また時間が出来たら、反論を書くね。

なんか、確かに論点が拡散してきたみたいなので、
そのときはまとめの方にアンカーつけていいかな?



  

  

  



307 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/18(日) 23:54:12 ID:PJVegCZl

そのほうがROMにとっても分かりやすいだろうね。
俺の方はまた来週になるのでよろしく。




★captain_nemo_1982 による補記

「自由主義編」 は一応これで終了です。

ご覧になった方なら一目瞭然ですが、青識亜論氏の論理構築力と
それを裏打ちする知識量は非凡なものがあり、
なにか職業的に人文・社会科学研究に携わっているのではないかと
伺わせるくらいの迫力を感じます。

それに到底太刀打ちできない私は、
「御説はごもっともだが、現実はどうなんだ?」
という方向にスライドさせることでなんとか
議論の体裁を維持させたというきらいは否めません。

私はこの、「理論に現状追認で対抗する」 という手法を、
その他の規制反対派との議論でもたびたび採用しているのですが、
青識亜論氏と私との知識量のレベル差が大きいため、
この議論でそれが通用しているかどうか心許ありません。

青識亜論氏には底が知れない懐の深さがあり、
私が何を知っているか、何を知らないか、
どのように解釈しているか、どのように反応するか、
全てあらかじめ知悉したうえでディベートを支配しているのでは
ないかとすら感じさせられてしまうからです。

それにしても改めて今回の議論における青識亜論氏の主張は
語り口やわかりやすさ含め非常に魅力的であるので、
当ブログを忌避しているような規制反対派諸氏にも
大いに参考になる部分は多々あるかと思います。

もっとも規制反対派の啓蒙主義路線を批判している私としては、
このような理論に傾倒してしまうことはハッキリ言って
反対運動のためにならない、とは思っていますが。




             (2011/4/1  entry)


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「Might is Right」なんて純正のマキャベリストでさえ口にしないだろう


青識亜論氏との議論


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「内在権力論編」 では、「自由主義編」 と違い、
私と第三者の議論に青識亜論氏が横レスをつけるというパターンが
何度かあったため、第三者との議論も同時に掲載しています。
ただし、あくまで流れを理解できる程度にとどめていますので、
議論内容に省略があったり、その後も続いた議論を割愛しています。
興味のある方は 内閣府スレ★39 を参照してください。







182 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/08/12(水) 16:38:11 ID:yc473ClH [3/17]

>>あなたへの賛同意見はここでは増えてないみたいだけど

最初から期待してない。100人に1人でも賛同者がいれば御の字。
サッカー日本代表がアウェーで中国代表をフルボッコにしても、
中国サポーターが日本のファンになるわけ無いでしょ?それとおんなじ。


  

  

  



187 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/08/12(水) 17:05:32 ID:hUwAeyfm [1/4]


ネモ君の議論は、確かに反対派の論拠に対してしばしば有効打を与えていて、
その点では確かに巧妙なんだけど、肝心のなぜ賛成かというところについて、
あまりきちんとした理論というか、理念がないんだよね。

盾の論理ばかりで矛の論理がない。
反対派の攻撃を防いで立っていることはできるけど、決して致命傷を与えることができない。

サッカーの試合の場合、プロレスなんかと違って、
観客を魅了するためよりも、まず第一にルール内で勝つことを
目的にしているけど、議論の場合は説得こそが目的であり意義なんだから、
誰も耳を傾けないような議論では困るよね。




  

  

  



188 名前:名前:イモー虫[]
     投稿日:2009/08/12(水) 17:07:25 ID:Wvrw3/8y [11/28]


改正反対派の意見に反対
byネモ


189 名前:名前:イモー虫[]
     投稿日:2009/08/12(水) 17:09:37 ID:Wvrw3/8y [12/28]


しかしこうも言ってる

『反対する理由がない』
byネモ



  

  

  



190 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/08/12(水) 17:11:51 ID:hUwAeyfm [2/4]


そうなんだよね。ぶっちゃけ、そういう話に見えてしまう。
反対派にはいちおう矛の論理としての「表現の自由」がある。

規制派の矛は「多数の賛成」だけど、理念としてこれを表現の自由にぶつけると、
やや醜い議論になっちゃうから、振り回しにくいという欠点がある。
現実の政治は粛々と規制に向かっているわけだから、
規制が正しいのだという論理も、単なるニヒリズムであって、
「Might is Right」 なんて純正のマキャベリストでさえ口にしないだろう。



  

  

  




207 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/08/12(水) 21:08:15 ID:yc473ClH [6/17]

>>187

>>肝心のなぜ賛成かというところについて、
>>あまりきちんとした理論というか、理念がないんだよね。


正直言って、俺の中には賛成する理由も反対する理由も無い。
理由が無いのだから、多数決にしたがって消極的に賛成するしかない。
逆に言えば、反対意見が多数を占めれば、消極的に反対することはありうる。
 (ただし、他の問題で理由がある場合は、少数派の立場に立つこともある。
  森政権支持やタウンミーティングやらせ問題など)

ではなぜ議論に参加するかというと、単純に言えば議論が好きだから。
ネットでは反対派が圧倒的多数だから、わざとそういう場に飛び込んで
議論を戦わせるのは面白いんだよね。逆説的な反権威主義なんだよ。
賛成派の立場に立つ理由はそれだけじゃなく、戦後民主主義への
懐疑心というのも手伝ってはいるが。


208 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/08/12(水) 21:09:04 ID:yc473ClH [7/17]

>>議論の場合は説得こそが目的であり意義なんだから、
>>誰も耳を傾けないような議論では困るよね。


基本的に遊び半分でやってるもんで、そう言われるとちょっと耳が痛い。
ただ、俺のブログに反対派の人から 「参考にして反対論を組み立てて行きたい」
みたいなコメントを貰う事もあるので、そういう意味では多少の意義はあるのかなと思ってる。

それと、遊び半分を自覚してるから、大谷スレみたいに真面目にやってる所には
足を踏み入れないようにしている。(最近のレベル低下は目を覆うものがあるが)
俺が最初に書き込んだのは 
「児ポ法改正反対者は反日サヨクの売国奴である。」 という
かなり挑発的なタイトルのスレッドで、
俺みたいな不真面目な動機の人間にとっては敷居が低かったってのはある。

まあ、その辺は俺なりに空気を読んでるつもりなので、寛容に見てもらいたい。


  

  

  



245 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/08/13(木) 00:57:37 ID:RkF/DM5a [1/6]


議論を追いかけていると、他の規制派と違い、
ネモ君とは何らかの合意に到達できそうな気がする。


>理由が無いのだから、多数決にしたがって消極的に賛成するしかない。

理由がなければなぜ多数派に従う必要があるのだろうか。
それもある種の理念、民主主義と言ってもいいし、
従属的マキャベリズムと言ってもいいが、
そうしたものと無縁ではないように思われる。

価値中立的な判断など存在しない。
論理を巧妙に組み上げているにも関わらず、全体として説得的でないのは、
最終的な価値判断から逃げてしまっているためではないかな。


>ネットでは反対派が圧倒的多数だから、わざとそういう場に飛び込んで
>議論を戦わせるのは面白いんだよね。

僕もそういうところがあるから気持ちはわかる。
僕がN速+で新自由主義的な主張をしたりしているのは、
君と似通ったある種の判官びいきによる。


>賛成派の立場に立つ理由はそれだけじゃなく、
>戦後民主主義への懐疑心というのも手伝ってはいるが。

これは反対派も共有しているんじゃないだろうか。
弱者の口を借りて、ある種の意見を封殺しようとするような動き……
戦後民主主義の一つの特色だけど、
それに対してはむしろ反対派のほうが強く反発しているように思われる。




                     (2011/4/2 entry)


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サブカルが自由に表現される場の保障は、「社会的に望ましい意見」という圧力を破砕する力の源泉としての意味がある


青識亜論氏との議論


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194 名前:名前:イモー虫[]
     投稿日:2009/08/12(水) 17:34:30 ID:Wvrw3/8y [15/28]


>>190

まあ、その『多数の賛成』は詐欺みたいなもんだけどな
物質の統計(人口調査など)は結構な度合いで信用に値するが、
感情の統計はいろんな要素に左右される
よって>>1  の調査結果が信用に値しないのは明白であるし、
感情の調査に統計を用いる事がそもそもの間違い











195 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/08/12(水) 17:44:14 ID:hUwAeyfm [3/4]


複雑な問題だね。
確かに、性の問題に関して面接形式で調査をするのはどうなんだろう。

「表現の自由」に関する憲法学説の専門家である奥平康弘は、
ずいぶん昔、猥褻表現一般の規制に賛成するかどうかのアンケートが、
猥褻表現強化の根拠になっていることについて、同じロジックで批判していた。

匿名性の高いネットの調査では、規制反対派が圧倒しているそうだが、
実際、どのぐらいの人間が賛成しているのかについて、
厳密に正確な統計はないし、望むべくもない。











209 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/08/12(水) 21:10:04 ID:yc473ClH [8/17]

>>ずいぶん昔、猥褻表現一般の規制に賛成するかどうかのアンケートが、
>>猥褻表現強化の根拠になっていることについて、
>>同じロジックで批判していた。


今やってる議論に関連して、前スレでも問題提起したんだが、
一人の人間の中に本音と建前が共存していて、
建前としての 「社会的に望ましい回答」 がそのまま政治意思の表明として
流通していくことは、悪いことなのかどうなのか?という疑問がある。

その人にとっては本音と乖離があっても 
「社会的に望ましい」 という認識はあるわけだよね?

となれば、その集積が施策に反映されるのは、
社会にとって望ましいのではないだろうか。










246 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/08/13(木) 00:59:15 ID:RkF/DM5a [2/6]



ここで言うところの「社会的に望ましい」というのはおそらく、
「他者が」望ましいと感じているであろう意見、という意味だろうね。

他者の視線を哲学の中心に位置づけた哲学者として、
ミシェル・フーコーという人物がいる。
セクシャル・マイノリティの擁護を行った人物でもあるので、
僕や黒愛美さんがしばしば言及するのだけど、彼の思想は児童ポルノ法を考える上でも大変示唆に富んでいる。

ジャン・ボダン的な、あるいはウェーバー的な、物理的な支配-従属関係によって形成される主権権力と異なり、
フーコーは他者の視線、倫理や科学によって形成される
生政治の問題を重要視した。
権力は法だけでなく、あまねく人間関係すべての中に遍在するものだと
考えたわけだ。

フーコーはとりわけナチスの権力に着目する。
ナチスドイツは厳格な倫理主義や潔癖主義の中で、
精神病者・同性愛者・他民族に対する排斥を行った。
これを可能にしたのは、とりもなおさず、他者の視線だった。

その社会における倫理的命題、「愛国的に振舞え」「同性愛者は劣等種だ」
「ユダヤ人を殺せ」……が、他者の視線の圧力を通じて、
内面化され、「社会的に望ましい」意見を個人に強要する。

(続く)



247 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/08/13(木) 01:00:48 ID:RkF/DM5a [3/6]


これは何もナチスに独特のシステムというわけではなく、
フーコーは戦後、自由主義社会で「社会的に望ましくない」とされてきた人びとの
解放を行おうとする。
その一つが同性愛者の擁護であり、ゲイリブ運動の出発点だった。
その運動は最終的に実を結び、フーコーは同性愛者の間で
「聖フーコー」とまで呼ばれ、神聖視されている。

同性愛はソドミー法などに代表されるように、
「社会的に望ましくない」とみなされていた。
ナチスにおけるユダヤ人に対してと同じく、個々人が十分な熟考のもとにそうした差別を肯定したというよりは、
「社会的に望ましくない」と見る他者の視線が、そうした規範を形成し、
同性愛者に対する差別をなくすよう訴えるどころか、
自身が同性愛者であるとのカミングアウトすら難しい風潮が生まれた。
フーコーはここに視線の持つ権力性、生政治のシステムを見出したわけだが、
これは幼児性愛の問題についても同じことがいえると思う。

「社会的に望ましくない」と考える他者の視線が、
個人の中に「社会的に望ましくない」という倫理を形成し、
そして今度はその人の視線が、別の他者の「社会的に望ましくない」
という倫理を形成する。

ユダヤ人や同性愛の迫害と同じく、それが本当にその個人から見て
理想の社会像であるかどうかとはまったく別に、
内面化された視線が、望ましさを個人に対して強要する。

小児性愛的表現に対する面接式のアンケートも、
同様のメカニズムが働いているのではないか?
というのが反対派の根本的な疑問だと思う。



249 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/08/13(木) 01:20:38 ID:RkF/DM5a [4/6]


……と、まあ、延々とフーコーの話をしたけど、これは例えば戦後民主主義なんかについても同じことが言えると思う。

例えば、戦後の再武装や在日朝鮮人問題、戦中の日本軍に対する擁護などが
ある種のタブーになったように、戦後民主主義は
「社会的に望ましい」とされる良識なり、倫理的見解なりを形成した。
ネモ君も覚えがあると思うが、これはある種の権力、
特に教育などの現場においてほとんど支配的な地位にあった。

これもある種のフーコー的な規律訓練権力であるし、生政治の代表的な例だ。
他者の視線が九条に疑義を呈する人を抑圧し、
戦中の日本を擁護する言説を封殺し、
「社会的に望ましい」戦後民主主義によって万人を同化しようとする。

ところで、社会学者の大澤真幸は、内面化された他者の視線による審判を
「第三の審級」と呼び、「第三の審級」の影響から
しばしば無縁に振舞う人びとの集団として、「オタク」を描いた。

実際、戦後民主主義に対する懐疑が、新右翼などのマイナーな運動から、
時代的な潮流になったのは、とりもなおさず小林よしのりの漫画によってであり、
またネットの普及によるものだった。

反対派の多くは、「第三の審級」によって形成される「社会的に望ましい意見」、
すなわち小児性愛への感情的非難や、戦後民主主義に対する突破口として、
サブカルを見ている。
サブカルは遊戯的であり、他者の視線によって形成される
良識だの倫理だのからは無縁だ。
オタクという集団の社会的広がりは、われわれの社会を視線の圧力から解放し、
いつかネットだけでなく、リアルの次元でまったき戯れとしての議論を
可能とするかもしれない。

エロゲなども含め、サブカルが自由に表現される場の保障は、
そういう「社会的に望ましい意見」という圧力を破砕する
力の源泉としての意味がある。




               (2011/4/3 entry)


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したがって残された道はただ一つ、脱中心化を行うこと、……アドホックでローカルな「抵抗」を行うことである


青識亜論氏との議論


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 このエントリは 内閣府スレ★39 より引用しました



268 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/08/13(木) 10:46:15 ID:Q6m4NT5W [1/25]

>>246-247

>>他者の視線を哲学の中心に位置づけた哲学者として、
>>ミシェル・フーコーという人物がいる。


フーコーを扱っているサイトをいくつか拾い読みしてみた。
彼が実際に同性愛開放運動にどう関わっていたのか知りたかったのでね。
 (ハッキリ言って青識氏の解説が無かったらチンプンカンプンだったろう。)

でまあ、やっぱり俺の興味は 「その高尚な理念を現実社会にどう繰り込むか」
ということにどうしてもなっちゃうんだけど、付け焼刃的な論評で申し訳ないが、
フーコーの理念は結局 「マイノリティを差別・阻害してはいけない」 という
別の社会的望ましさに依拠しないと現実社会では成立しない、と言う気がする。

実践に当たっては、否応無く 「内在的権力から自由になるべき」 という形で
内在的権力の論理を取り込まざるを得ない。
マイノリティの権利獲得運動において勝利するためなら、
悪いこととは思えないが、その辺はどう論じられているのだろう?


「同性愛者に対する差別をなくすべきと思いますか」 という質問があったとして、
本音では 「無くすのは無理。気色悪いから近づきたくない」 とか思ってても、
「差別はいけない」 という社会的望ましさに束縛されて、
「無くすべきと思う」 という回答を選択するってのは十分ありうる。

それは、社会的に望ましいことなのかどうか?
また、そのような一般大衆の情動は、
規制反対派にとって大きな武器になりうるわけだよね?


273 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/08/13(木) 17:12:40 ID:Q6m4NT5W [2/25]

>>249

>>エロゲなども含め、サブカルが自由に表現される場の保障は、
>>そういう「社会的に望ましい意見」という圧力を破砕する
>>力の源泉としての意味がある。


サブカルの社会的役割をちょっと過大評価してるんじゃないかと思う。
言ってることは分かるけど、サブカル単体でそこまで大きな仕事は出来ない。

「奇妙な論理」 のマーティン・ガードナーによると、
「進化論がキリスト教義の背骨に与えた打撃の大きさは、
大きく見積もって見積もりすぎると言うことは無い」  と言うことだが、
現代社会では革命的なパラダイムシフトを促す発見と言うのは
思想・哲学・芸術、科学の分野ですら難しくなっているだろう。

前に 「歌は世につれ、世は歌につれ」 って言ったけど、
歴史的必然性を伴った社会思潮の流れに乗らないと、
サブカルはもとより思想や哲学の先見性が評価を見ることは難しいと考える。

小林よしのりの 「ゴー宣」 による自虐史観への攻撃は
リアルタイムで見聞したが、
共産主義崩壊により、それを思想的支柱としてきた戦後民主主義の凋落と、
アイデンティティの喪失に焦った左翼が飛びついた従軍慰安婦運動における
杜撰で穴だらけな贖罪意識の発動、と言う敵失に乗じたからこそ
あれだけの功績をなしえたのであって、何の前触れも無く
「戦争論」 で大東亜戦争を肯定しても、旧態依然の右翼的主張としか
受け取られなかっただろうし、
その後の猛烈なバッシングに耐え切れなかっただろう。

もちろん、サブカルが社会思潮に相乗すれば、旧来の内在的権力からの
解放を促す役割の一端を担えるだろうし、
 (俺に言わせれば、新たな内在的権力が割って入るだけだが)
そのような功績を有するサブカル表現は枚挙に暇が無い。

しかし、児ポ法反対運動において、
サブカル表現者たちがそのような仕事をしてきただろうか?
その出現が反対運動の突破口になりうると言うのは
>>68の言及と合致してるけど。

>>68 の言及とは、当ブログの社会の偽善にいかにつけこめるか (未完)
における文末のコメントを指します。











269 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/08/13(木) 15:42:15 ID:RkF/DM5a [5/6]


>>268

ネモ君の議論はしばしばフーコーの主張に対してぶつけられる意見なんだけど、
政治思想史家の小野紀明がこの問題に関して簡潔に答えているので、
その引用だけでこの問題に関しては議論を終えたいと思う。

  フーコーは(権力への)「抵抗」を主張することによって、
  やはり一つの真理を語っているのであり、
  その意味で彼もまた言説の暴力を行使しているのではないか、
  というよく知られた「自己言及性の逆説」について触れておこう。
  フーコーは、自分がけっして権力関係の「外部」から
  発言しているわけではないことをよく承知している。

  ……(フーコーの議論でさえ)新たな知による
  新たな権力的布置の構成に他ならず、
  そこでもまた権力は依然として存続していることに変わりはないのである。
  したがって残された道はただ一つ、脱中心化を行うこと、
  ……アドホックでローカルな「抵抗」を行うことである。

  ――小野紀明『政治理論の現在』、p.203



289 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/08/13(木) 18:51:55 ID:RkF/DM5a


>>273

歴史の中で何が決定論的に振舞うかというのは、大変に難しい問題だね。
昔の一部の歴史家のように、生産諸関係だと言い切れば話は単純なんだが、
歴史学の先端的研究(例えばアナール学派)は、
単純な唯物史観に致命的な打撃を与えた。
「大文字の歴史の終わり」も言われて久しい。

ヴァルター・ベンヤミンは『歴史の天使』の中で、
背後の瓦礫を凝視する存在として、歴史の天使の姿を描いている
  (クレーの「新しい天使」を引き合いに出しながら)。
彼の歴史に対するこの短い論評は、大変興味深いものなので、
暇があればぜひ読んでもらいたい(岩波から薄っぺらい評論集として出ている)。

ネモ君が歴史的必然とか、社会思潮、パラダイムシフトと呼ぶものは、
この天使を「未来のほうへと否応なしに運ぶ」強風のことであるが、
歴史の本質、すなわち天使が凝視しているものは、
未来ではなく過去に横たわる瓦礫である。
ベンヤミンが瓦礫として描いたのは、パリの町並み、
ポスターや子供の絵本、工場施設や劇場、
……畢竟、小文字で記されるべき、諸々の生活風景だった。
ベンヤミンの諸研究を引くまでもなく、サブカルはまさにこの中に含まれる。

変化の表れなのか、根本的原因を構成するのかはわからないが、
ともかく、サブカルが大きな物語の解体という流れの中にあるのは事実で、
フーコー的な意味での脱中心化を、現実政治ではともかくとして、
少なくとも思想的には達成しつつあるように思われる。
例えば有名な話だが、東浩紀などは『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』を
「ポストモダンの寓話」とまで称揚している


>しかし、児ポ法反対運動において、
>サブカル表現者たちがそのような仕事をしてきただろうか?

僕はサブカルのこうした役割を、
児童ポルノ法問題の原動力だととらえているわけではなく、
 (もちろん、ネモ君自身が認めるように、
  将来においてそうなる可能性はあるだろうが)
サブカルが「社会的に望ましい」という大きな物語を解体する装置となる可能性を見出しているだけだ。
中心化された戦後民主主義の物語が、どれだけ嫌悪すべき結果を生んだかは、ネモ君もよく知っている通りで、
サブカルが物語の脱中心化に役割を果たすのであれば、
児童ポルノもまたサブカルの一つとして擁護される必要がある。











274 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/08/13(木) 17:13:44 ID:Q6m4NT5W

>>269

>>したがって残された道はただ一つ、脱中心化を行うこと、……
>>アドホックでローカルな「抵抗」を行うことである。


うーん、中途半端というか苦し紛れと言うか・・・・・・
思想家としての誠実的な態度と言えなくも無いし、
それで運動が上手くいけば別に問題は無いんだろうけれど、
現実には価値観の衝突によるアノミーを招来するだけでは?


308 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/08/13(木) 20:26:55 ID:Q6m4NT5W [5/25]

>>289

>>サブカルが物語の脱中心化に役割を果たすのであれば、
>>児童ポルノもまたサブカルの一つとして擁護される必要がある。


そこがどうしてもあなたと意見が食い違うんだよな。
俺はサブカルは社会良識に叩かれてナンボだと思ってるし、
あんまり甘やかしちゃ為にならないと思うんだよね。
叩かれてこそ、反骨精神も芽生えるってもんでさ。
パターナリズムといえばそのとおりなんだけど。

余談だけど、以前例に出した映画版 「バトルロワイアル」 も
パターナリズムをめぐる寓話という構造を持っていて、
ラストにはそれを積極的に肯定する描写が登場する。
大人が子供に対して自信をもって向き合うことこそが、
現代社会の病理を解決する糸口である、といわんばかりに。










389 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/08/14(金) 00:44:52 ID:ZWYm8lhq [1/4]


>>274

>それで運動が上手くいけば別に問題は無いんだろうけれど、

今は運動論的な話をしているわけではないから。
脱中心化された真理と社会の関係は理想的だし……
それは、中心化された戦後民主主義に対する反発を持つネモ君なら、
ある程度は理解できるはず。


>現実には価値観の衝突によるアノミーを招来するだけでは?

多数の価値の並存は、アノミーと無関係だよ。
デュルケムの議論はもう少し込み入っているし、そもそもポストモダン的な
時代状況を彼自身が把握していたわけでもない。



391 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/08/14(金) 00:56:42 ID:ZWYm8lhq [2/4]


>>308

価値観の衝突こそが、表現を生み、多様化させる。
旧い社会的良識を掲げる人びとの価値観もまた、
表現としてそのアリーナに投げ込まれてかまわない。
 (「脱中心化」されるべきは、反社会的なサブカル的表現・価値観ないしは
  真理も含まれなければならない)

しかし、そのアリーナ自体を物理的権力で制限したり、破壊したりすることは、
そうした動きを妨げることになる。
西洋文化史を見れば明らかなことだが――まあ、もちろん、例外はある。
反動的な対抗改革がバロックの揺籃になったように
――とはいえ、長期的に見れば、
そうした社会で、多様な文化が生まれ育つということはほとんどない。
畸形的な抵抗文学や国策的な文化を除いては。

まあ、僕は大学のサークルで性愛史を勉強していたから、
その分野からの意見だけど。
くどくど歴史的な例証をあげれば、いくらでもできるけど、
前みたいに一回につき10レスのやり取りになっちゃうとお互い疲れるし、
またイモー虫君に怒られるので、大雑把だけどこのへんで。


>大人が子供に対して自信をもって向き合うことこそが、
>現代社会の病理を解決する糸口である、といわんばかりに。

弱いパターナリズムについては、反対派も含めて誰も批判してないと思うけどね。










280 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/08/13(木) 18:06:49 ID:Q6m4NT5W [4/25]

>>269

>>したがって残された道はただ一つ、脱中心化を行うこと、
>>……アドホックでローカルな「抵抗」を行うことである。


ちょっと考えたんだけど、マイノリティが
脱中心化、アドホックでローカルな「抵抗」 を選択したとしても、
保守的な層が 「固定された社会的望ましさが必要」 という信念を押し通せば、
結局マイノリティが周辺に追いやられることは必然だよね。

ということは、「脱中心化が必要」 という新たな内在的権力を
社会に広範に浸透させない限り、ローカルな抵抗はまさに
ローカルに終わってしまう。
これについてはどう?










389 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/08/14(金) 00:44:52 ID:ZWYm8lhq [1/4]


児童ポルノ法そのものについてはともかく、
価値の再中心化なんかが受け入れられないほどには、
われわれの社会はポストモダン的だよ。

この問題はあんまり掘り下げると、理念と運動論の違いとか
 (レーニンとかの論理展開を参考にすると面白いかも)、
ポストモダンってそもそもなんだという話になるので、
ひとまずここで区切りにしたい。




                      (2011/4/4  entry)


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captain_nemo_1982 at 13:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)