2014年09月13日
単純所持は児童の人権を侵害しない、という主張 - 感情論で児童の人権を線引きする規制反対派
冤罪以外の反対理由について :
単純所持は児童の人権を侵害しない、という主張 :
感情論で児童の人権を線引きする規制反対派
規制推進派は、 「児童ポルノの所持は人権侵害だ」 と言います。
規制反対派は、 「所持だけなら人権侵害にならない」 と言います。
双方、どういう根拠をもとにそんな主張をしているのでしょうか?
私が見たところ、それは主観や価値観の違い、
悪く言えば感情論の争いでしかありません。
たとえば、こんな議論があります。
(引用以外にもエントリやコメントのやり取りが多数あり、
私の大雑把な要約では真意を伝えきれないかも知れないので、
出来ればリンク先ソースをあたっていただきたいと思います)
被害者の利益は嗜好者の利益よりも重んじられるべき - 解決不能 (web 魚拓) ロシアと日本だけが単純所持禁止になっていないが故に、 女性が18歳未満時に性的暴行を受けた画像が出回っているらしい。 無論現行法でも取り締まりは可能だろう。 が、攻撃力は高い方が良い。 被害者の利益とぶつかるのは嗜好者の利益ではなく加害者の利益 - 胡散臭さがなんかいい (web 魚拓) 攻撃力の高低ではなく、攻撃相手を間違っている。 児童ポルノ規制が保護しようとしているものは無論、 児童の人権である。 ということは、児童ポルノ規制で規制すべきものは、 児童の人権を侵害しているものでなければならない。 家で動画を見る行為で、そこに映し出された人の人権は侵害されない。 なぜなら、被写体となった人の人権侵害は完了しているからである。 嗜好者は加害者にもなりうる可能性がある事を無視するのはどうかと - 解決不能 (web 魚拓) 完了している?何を仰っているのでしょうか。 usankusa 氏が挙げた事例では、人権侵害は現在進行形で 起こっているではないですか。 それがネットで入手した動画(画像)であろうと エロDVD販売店から購入したDVDであろうと、 それが児童ポルノであるのなら、それを見られている 被害者の人権は侵害されっぱなしです。 決して完了などしていません。 ■ コメント欄の noir_k 氏の投稿 ■ ( 「被写体となった人の人権侵害は完了している」 について) これは大変誤解されやすい表現だと思いますが、 あながち間違っているとは言えないと思います。 すでに1度視聴ている状態からは、それ以上の人権侵害はありません。 (視聴するたびに人権侵害されると考えても良いですが、 もっと分かりやすく視聴せずに単純所持するだけならば 人権侵害行為ではないと考えられます) 間接的な人権侵害が生じるのは1回目の視聴、 すなわち譲渡・販売という拡散プロセスであります。 ■ 44 氏のコメント ■ 1度見る 「行為」 を人権侵害としてお認めになるのなら、 なぜその後所持し続ける 「行為」 は侵害にならないのでしょう? ■ noir_k 氏の返信コメント ■ 所持と視聴は異なる行為です。 もっと分かりやすく言うなら、「単純所持」 とは二度と開けられない 箱の中に対象物を入れて保持しているということです。 視聴の有無は関係なく、視聴が所持の上位にあります。 1度視聴する行為を人権侵害としたのではなく、 今まで視聴したことがない人が視聴したことによって、 被害児童の人権が社会的に侵害された、と捉えました。 2回目以降の視聴において、上記のような人権侵害は発生しません。 つまり1回視聴するのも100回視聴するのも、 視聴した人物が被害児童を知ってしまったという点においては 差異がないと考えました。 作れない。では今回は見送りましょう - 胡散臭さがなんかいい (web 魚拓) しかし、なぜそんなにまで単純所持を規制したいのかと、 その辺から未だに理解できない。
これが未だに飲み込めない。 以前も述べたとおり、私は、人権侵害は 「収集する行為」 ではなく、 その原因となっている 「収集できる状態 (に置く行為)」 によって起こっていると考える。 なぜなら、収集できる状態にあることは被害者本人が確認できるが、 収集、所持、視聴する行為は確認できないからである。 |
児童の人権についての議論がなかなか理知的に行われてますが、
おのおのが持つ児童人権の線引きの判断基準が何なのかは
全く明らかにされていません。
まるで、自分の線引きが自明のことであるかのような前提を、
みながみな置いてしまっているような印象を与えます。
正直言って、これは仕方のない事と言わざるを得ません。
なぜなら前述のとおり、児童の人権範囲の線引きの議論は、
主観や価値観の違い、悪く言えば感情論の争いでしかないからです。
だから皆が皆、 「単純所持は人権侵害だ」 「そうじゃない」
という単なる価値観の表明を超える議論が出来ていないわけです。
noir_k 氏が試みているように、行為の質に応じて
あいだあいだに細かく線を引くことはできます。
しかし、どこの線からが人権侵害になるのかという選択は、
結局は社会の倫理、道徳、秩序意識の集積によって
決定づけられるほかは無く、しかもそれは
10年単位で大きく範囲が変動する可塑性をもつのです。
規制推進派はそれでも良しとしましょう。
なぜなら規制派の動機はあからさまに感情論ではあるものの、
別段それを隠そうともしていないし終始一貫しているので、
理知的かどうかはともかくとして矛盾は存在しません。
しかし、規制派の感情論に対する敵意をむき出しにし、
論理的な自分たちの主張の方が優位であると
選民意識をひけらかす規制反対派にとっては、
これは致命的な矛盾となります。
結局は反対派も、感情論以外に児童の人権の線引きを
行う手段を持ち合わせていないからです。
しかも、規制派の動機や手段はどうあれ、
求めている結果は児童の人権保護です。
ところが反対派の (これも動機や手段はどうあれ)
求めている結果はどう見たって
児童の人権の制限、削減、縮小に他なりません。
感情論で児童の人権を保護しようとする規制派に対して、
同じく感情論で児童の人権を制限しようとする反対派が、
いったいぜんたいどうすれば論理的・倫理的に
優位に立てるというのでしょうか?
■ 参考エントリ ■
感情論で児童の人権を線引きする規制反対派
■ 補記 ■
「児童の人権のためなら、単純所持規制なんかよりも
もっと他の事 (児童虐待など) を優先しろ」
と言った規制反対派の主張に対しては、
「一緒に並行してやればいいじゃん」 という反論で事足りますが、
それとは別に、重大な矛盾と欺瞞を指摘することができます。
それは後日、別館エントリにて行う予定です。
(2014/10/22 entry)