2013年04月29日

サブカルが自由に表現される場の保障は、「社会的に望ましい意見」という圧力を破砕する力の源泉としての意味がある


青識亜論氏との議論


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194 名前:名前:イモー虫[]
     投稿日:2009/08/12(水) 17:34:30 ID:Wvrw3/8y [15/28]


>>190

まあ、その『多数の賛成』は詐欺みたいなもんだけどな
物質の統計(人口調査など)は結構な度合いで信用に値するが、
感情の統計はいろんな要素に左右される
よって>>1  の調査結果が信用に値しないのは明白であるし、
感情の調査に統計を用いる事がそもそもの間違い











195 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/08/12(水) 17:44:14 ID:hUwAeyfm [3/4]


複雑な問題だね。
確かに、性の問題に関して面接形式で調査をするのはどうなんだろう。

「表現の自由」に関する憲法学説の専門家である奥平康弘は、
ずいぶん昔、猥褻表現一般の規制に賛成するかどうかのアンケートが、
猥褻表現強化の根拠になっていることについて、同じロジックで批判していた。

匿名性の高いネットの調査では、規制反対派が圧倒しているそうだが、
実際、どのぐらいの人間が賛成しているのかについて、
厳密に正確な統計はないし、望むべくもない。











209 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/08/12(水) 21:10:04 ID:yc473ClH [8/17]

>>ずいぶん昔、猥褻表現一般の規制に賛成するかどうかのアンケートが、
>>猥褻表現強化の根拠になっていることについて、
>>同じロジックで批判していた。


今やってる議論に関連して、前スレでも問題提起したんだが、
一人の人間の中に本音と建前が共存していて、
建前としての 「社会的に望ましい回答」 がそのまま政治意思の表明として
流通していくことは、悪いことなのかどうなのか?という疑問がある。

その人にとっては本音と乖離があっても 
「社会的に望ましい」 という認識はあるわけだよね?

となれば、その集積が施策に反映されるのは、
社会にとって望ましいのではないだろうか。










246 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/08/13(木) 00:59:15 ID:RkF/DM5a [2/6]



ここで言うところの「社会的に望ましい」というのはおそらく、
「他者が」望ましいと感じているであろう意見、という意味だろうね。

他者の視線を哲学の中心に位置づけた哲学者として、
ミシェル・フーコーという人物がいる。
セクシャル・マイノリティの擁護を行った人物でもあるので、
僕や黒愛美さんがしばしば言及するのだけど、彼の思想は児童ポルノ法を考える上でも大変示唆に富んでいる。

ジャン・ボダン的な、あるいはウェーバー的な、物理的な支配-従属関係によって形成される主権権力と異なり、
フーコーは他者の視線、倫理や科学によって形成される
生政治の問題を重要視した。
権力は法だけでなく、あまねく人間関係すべての中に遍在するものだと
考えたわけだ。

フーコーはとりわけナチスの権力に着目する。
ナチスドイツは厳格な倫理主義や潔癖主義の中で、
精神病者・同性愛者・他民族に対する排斥を行った。
これを可能にしたのは、とりもなおさず、他者の視線だった。

その社会における倫理的命題、「愛国的に振舞え」「同性愛者は劣等種だ」
「ユダヤ人を殺せ」……が、他者の視線の圧力を通じて、
内面化され、「社会的に望ましい」意見を個人に強要する。

(続く)



247 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/08/13(木) 01:00:48 ID:RkF/DM5a [3/6]


これは何もナチスに独特のシステムというわけではなく、
フーコーは戦後、自由主義社会で「社会的に望ましくない」とされてきた人びとの
解放を行おうとする。
その一つが同性愛者の擁護であり、ゲイリブ運動の出発点だった。
その運動は最終的に実を結び、フーコーは同性愛者の間で
「聖フーコー」とまで呼ばれ、神聖視されている。

同性愛はソドミー法などに代表されるように、
「社会的に望ましくない」とみなされていた。
ナチスにおけるユダヤ人に対してと同じく、個々人が十分な熟考のもとにそうした差別を肯定したというよりは、
「社会的に望ましくない」と見る他者の視線が、そうした規範を形成し、
同性愛者に対する差別をなくすよう訴えるどころか、
自身が同性愛者であるとのカミングアウトすら難しい風潮が生まれた。
フーコーはここに視線の持つ権力性、生政治のシステムを見出したわけだが、
これは幼児性愛の問題についても同じことがいえると思う。

「社会的に望ましくない」と考える他者の視線が、
個人の中に「社会的に望ましくない」という倫理を形成し、
そして今度はその人の視線が、別の他者の「社会的に望ましくない」
という倫理を形成する。

ユダヤ人や同性愛の迫害と同じく、それが本当にその個人から見て
理想の社会像であるかどうかとはまったく別に、
内面化された視線が、望ましさを個人に対して強要する。

小児性愛的表現に対する面接式のアンケートも、
同様のメカニズムが働いているのではないか?
というのが反対派の根本的な疑問だと思う。



249 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/08/13(木) 01:20:38 ID:RkF/DM5a [4/6]


……と、まあ、延々とフーコーの話をしたけど、これは例えば戦後民主主義なんかについても同じことが言えると思う。

例えば、戦後の再武装や在日朝鮮人問題、戦中の日本軍に対する擁護などが
ある種のタブーになったように、戦後民主主義は
「社会的に望ましい」とされる良識なり、倫理的見解なりを形成した。
ネモ君も覚えがあると思うが、これはある種の権力、
特に教育などの現場においてほとんど支配的な地位にあった。

これもある種のフーコー的な規律訓練権力であるし、生政治の代表的な例だ。
他者の視線が九条に疑義を呈する人を抑圧し、
戦中の日本を擁護する言説を封殺し、
「社会的に望ましい」戦後民主主義によって万人を同化しようとする。

ところで、社会学者の大澤真幸は、内面化された他者の視線による審判を
「第三の審級」と呼び、「第三の審級」の影響から
しばしば無縁に振舞う人びとの集団として、「オタク」を描いた。

実際、戦後民主主義に対する懐疑が、新右翼などのマイナーな運動から、
時代的な潮流になったのは、とりもなおさず小林よしのりの漫画によってであり、
またネットの普及によるものだった。

反対派の多くは、「第三の審級」によって形成される「社会的に望ましい意見」、
すなわち小児性愛への感情的非難や、戦後民主主義に対する突破口として、
サブカルを見ている。
サブカルは遊戯的であり、他者の視線によって形成される
良識だの倫理だのからは無縁だ。
オタクという集団の社会的広がりは、われわれの社会を視線の圧力から解放し、
いつかネットだけでなく、リアルの次元でまったき戯れとしての議論を
可能とするかもしれない。

エロゲなども含め、サブカルが自由に表現される場の保障は、
そういう「社会的に望ましい意見」という圧力を破砕する
力の源泉としての意味がある。




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