2013年04月29日

個人の自由意志の集合体を規範とする以外に、自由な社会と民主主義を維持することはできない


青識亜論氏との議論


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759 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 14:08:03 ID:LZ4BGQsP


「私は君の意見には反対だ。しかし、君がそれを言う自由を命をかけて守る。」
――ヴォルテール

「自由とは常に、思想を異にするもののための自由である。
(Freiheit ist immer die Freiheit des Andersdenkenden.)」
――ローザ・ルクセンブルグ

「真理と自由にとってもっとも危険な敵、それはぎっしりつまった多数票だ。」
――イプセン(『人民の敵』)

「私はどのような時代に生まれても、自由を愛しただろう。
しかしこの時代においては、私は自由を至高のものとして崇めたいと思う。」
――トクヴィル

「他人が良いと思うことに従って生きることを強要するより、
本人が良いと思うように生きることを誰にでも許すほうが、
人類はずっと大きな利益を勝ち得るのである。」
――J・S・ミル

「世に最も美しいものは、 言論の自由である。」
――ディオゲネス




832 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 17:37:51 ID:LZ4BGQsP


>「欲望と倫理の間の『バランス』」 を、「個人が自分自身の意志において決定」
>出来るほどの知性・理性を最初から備えているということが前提となっている。

僕は自由意志というものが、知性や理性を前提とした概念だとは思わない。
最悪の愚か者が、欲望を完全に肯定するような、
モラリストから見れば「バランス」を欠いた決定をしたとしても、
それは彼の自由意志に基づくものだから、価値判断の対象にはならない。
モラリストが愚か者よりも優れているというのは、何が優れているかを判断する
より上位の形而上学的な基準が必要だが、
自由主義と民主主義をとる社会において、そういう上位の意志は存在しえない。

自由主義は個人の意志の無謬を前提しているのではなく、
むしろ正しさと過ちの基準を、
諸個人の意志によってしか判断できないという認識から出発する。

誤解を恐れずに言えば、「正しい規範」など存在しないという考えが
根底にあるわけだ。
陳腐な言い回しだが、「人間は万物の尺度」なのであり、
キリスト教社会のように、より上位の倫理的存在を基準にして、
「正しい」方向へ社会を導くという試みは、
無数の価値観が混在する「神々の闘争」(ウェーバー)である近代社会において、
不可能となった。

大雑把な言い方になるが、自由主義者は個人の自由意志から
「正しい規範」が生まれると主張するのではなく、
個人の自由意志の集合体を規範とする以外に、
自由な社会と民主主義を維持することはできないと主張しているわけだ。



833 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 17:38:18 ID:LZ4BGQsP


>「万人の利益のため」 という有史以来の普遍性をもつ最上位原則により
>時代や地域の特性に配慮した上で取捨選択されるべきであろう。

万人の利益のためというのは非常に曖昧な言葉だけど、
ベンサム的な「最大多数の最大幸福」の意味でいいのかな?

そうなると、君が最上位原則と呼ぶものは、
利益とは何かという根本的な問題を孕んでいることになる。
必然的に、「効用(Utility・功利と同じ語)の効用とは何か、答えよ!」という
レッシングの有名な功利主義批判を帰結する。
利益とか功利をどのようにして計測するのかという問に答えない限り、
「万人の利益のため」という原則はなんの意味も持たない。

ベンサムは自然科学的な基礎から、人間の幸福を「快苦計算」することによって
算出可能であると考えた。
しかし、人間の幸福が自然科学的対象のように、
同質的なものであることを保障する根拠はどこにもない。
「君らの神の正気は一体どこの誰が保障してくれるのだね?」(『ヘルシング』)
というわけだ。

この功利主義批判は必然的に、自分の幸福の基準は
自分自身しかわからないという、方法論的個人主義の立場を要請する。
つまり、自分が幸福だ、好ましいと考える「規範」を各個人が提示し、
アリーナで戦わせ、自由意志の集合として規範を形成するしかない。

それぞれが好ましいと考える「選好」を集計することによって、
望ましい社会規範を決定する立場を、「選好功利主義」と言う。
この立場に立てば、上記のようなディレンマから逃れることが出来るが、
これはもはや自由主義となんら異なるところはない。

つまり、人間の自由を肯定し、パターナルとしての国家を拒絶する自由主義も、
人間生活を教理によって統制しようとするキリスト教倫理も、
同じく個人が好ましいと考える点で、等しく規範の可能性の一つである。
しかし、社会規範を決定する際には、選好功利主義の見地に立てば、
これらのあらゆる倫理をアリーナで戦わせ、自由意志において選好を表明し、
その「最大化」をはかるしかない。
結局、どのみち、あらゆる規範の基準から、
一つの社会規範を形成するメタ的な論理としての自由主義が必要となるわけだ。




834 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 17:39:05 ID:LZ4BGQsP


>社会倫理的観点からの対抗力が働くことがあったとしても、
>一度拡散を許した性的規範を自由意志の集合のみで、
>再び一定の枠内に押し込めることは不可能。

この問題に関して、自由主義者の発する答えは、
非常に簡潔なものになるだろう。

「なぜ、性的規範を一定の枠内に押し込める必要があるのですか?」

ポルノを受容し、性的放縦が肯定されるべきと答える人間が増えたならば、
それが次の社会規範を構成すればいいだけのこと。
性的規範の望ましい「枠」などというものは、存在しない。
なにが望ましいかを決定する上位の存在を仮定しない限り、
この問題に答えることは出来ず、上位の存在を仮定するならば、
それはその支配に置かれる諸個人の自由の死となる。


>すなわち、「自由のための圧力」 という逆説的論理を用いずして
>自由主義はその体制を護持できない。

一番最初に論じたように、「自由を否定する自由」を認めることは、
自由の自己否定につながる。
J・S・ミルの侵害原理は自由主義の論理的な基礎なので、
当然、内側に向けて自由主義の論理を取るといっても、
自由を否定する自由を警察権力などの社会制度によって抑止するのは、
自由主義の枠内のことだ。

こういう回避の仕方は、自己言及のパラドックスを解消するための
伝統的なやり方で、例えば有名な「クレタ人のパラドックス」も、
「クレタ人は嘘つきだ」と発言したクレタ人、
エピメニデスを論及の対象から除くことで、パラドックスではなくなる。
自由主義の問題にしても同じで、自由を否定する自由を除くことで、
矛盾ではなくなる。

自由主義者は、倫理や欲望を客観視する必要をまったく感じていない。
あくまで主観的な判断の集合体として、社会規範をとらえているからだ。
こうした考え方を主観主義と言い、社会思想においては、
ハイエクなどオーストリア学派の系譜を引く学者がこの立場を取る。




835 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 17:39:45 ID:LZ4BGQsP


>表現に 「規範の選択肢」 という役割が与えられるならば、
>その流通に市場原理や快楽原則に準じた偏りが発生してはならない。

これは>>709 の内容の繰り返しになるが、
主観的な判断の総体として規範をとらえる自由主義者は、
市場原理や快楽も自由意志の一部とみなす。
「偏りが生じてはならない」と自由主義者は考えない。

むしろ、「偏り」というときには、偏らない「バランス」
がどこかに存在すると前提されていることになるが、
そもそもそんなものはどこにも存在しないからだ。
そして、市場原理や快楽原則に従うのも、人の自由の一部なのだから、
「表現の自由を否定する自由」ではないことになる。


>すなわち、「規範とは、物質的快楽と精神的価値の均衡において
>実現するのであり、どちらか一方のみでは片手落ちとなる。」

物質的快楽に流される人間と、精神的価値を重んじる人間の両方が
価値形成のアリーナに投げ込まれるのであり、
その双方の闘技によって、なんらかの均衡が達成される。
どちらか一方の表現のみをアリーナの闘技の対象とするのであれば、
それは「片手落ち」になる。

しかし、性的放縦を招く、物質的快楽に重きを置いた表現が
アリーナにおいて勝ち残るのであれば、
それは単に新しい均衡が実現するというだけのことで、
「均衡」とは「バランス」を意味しない。




836 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 17:40:10 ID:LZ4BGQsP


>「面倒くさいから意思表明しない」 という人間の存在

周囲の規範に流されるというのも、それは一つの自由な選択。
ただ、宗教団体の価値観が、自由なアリーナで勝ち残るかどうかは
微妙な問題だ。
ウェーバーが「世俗化」ということを言ったように、
宗教の論理とそのほかの政治や性愛領域の問題は、
近代に入るにつれて、切り離されていく傾向があった。

人は必ずしも、自由意志において突出した価値観へ近づいていくわけではない。


>そしてそれは、すでに議会制民主主義というシステムとして結実している。

僕も議会制民主主義を否定するつもりはない。
ただ、議会というのは人々の間に形成された規範を汲み取り、
法律や制度を作る機関でしかない。
ある規範を正しいものとして国民に押し付けるのは、ただのパターナリズムだ。
もちろん、何度も繰り返しになるが、行為の次元において、
規範の範囲内で個人が自由を行使するように定めるのは、
国家の重要な任務の一つであって、それを否定するべきではないだろう。

しかし、行為を制限する規範自体を形成する、
表現の場に規範を持ち込むべきではないというのが、自由主義の論理。
規範の形成が自由意志で行われているからこそ、
規範に正当性が与えられるのであって、
そうでなければ個人を超えたなんらかの存在による
規範の押し付けにすぎなくなるからだ。


>コアな規制推進派の思想的背景がなんと名づけられてるのか知らないが、

僕も反ポルノ運動について詳しいわけではないが、
僕が知る限り、ポルノの存在自体を「女性性の商品化」と考え、
存在自体が女性の地位を貶めていると考えるのは、
いわゆる「ラディカル・フェミニズム」と呼ばれる立場に
分類されるのではないかと思う。
少なくとも、反ポルノ運動の旗手だったアンドレア・ドゥオーキンは
「ラディカル・フェミニズム」に一般的に分類される。

まあ、ラディカル・フェミニスト以外に反ポルノを先導している思想集団が
いるかもしれないけど、女児や女性の人権を
きわめて広く拡張・解釈しようとするのは、
やっぱりフェミニズムの文脈だと思う。




837 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 17:40:35 ID:LZ4BGQsP


>「自由主義」 も 「キリスト教的原理」 も 「児童の人権真理教」 も
>公平に原理基準として選択を吟味されるべきである。

すでに述べたように、規範の基準としてどれも平等にアリーナに
投げ込まれるというのは正しい。
しかし、アリーナでの闘技を保障する、
メタ的な論理としての自由主義はその前提だ。
闘技に勝ち残る可能性の一つとしての自由主義と、
闘技そのものを保障する自由主義は区別しなくてはならない。


>「自由主義」 のみを採用すべきと言う強制力は存在しない

それは確かに正しいが、アリーナでの自由意志による選択という考えを
棄却するのであれば、ラディカル・フェミニストたちは、
女性の自由意志を論理的な基礎におく、
自分たち自身の論理との整合性を失うことになる。
このあたりのフェミニズムの構造的批判は、
例えばデリダなどもすでに行っていて、ラディカル・フェミニズムが
ポストモダン・フェミニズムに取って代わられる一要因を作り出した。

ともあれ、ロナルド・ドゥオーキンが「平等な配慮」と呼んだように、
表現の自由においてすべての規範が平等に闘技(討議)の対象になることは、
民主主義と法的システムの根幹であり、
それを棄却するならば、規範の決定者による不平等な闘技を
要請する理由を提出しなければならないだろう。




838 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 17:40:59 ID:LZ4BGQsP


>仮に推進派が性表現全般においては 「自由主義」 の採用を
>認めたとしても、児童に限っては 「児童の人権真理教」 を
>採用すべきと主張すること

ロナルド・ドゥオーキンの「平等な配慮」や、
「自己の政敵が同様の要求をしたときに容認しうるもの」というロールズの
「正義の原理」によって、ただちに反論をすることができる。

アリーナの中で、ある表現に対し、対立する規範それ自体
(この場合ならラディカル・フェミニズム)によって、
ルールの上で排除したり特例処置をとることを認めるのなら、
それはその規範にもとづく自分達の表現自体が、
同じ様な取り扱いを受ける可能性について、議論しなければならない。
例えば、男根優位主義がアリーナで勝利した結果として、
フェミニズム表現を排除するといったことを、
認めるかどうかという問いである。

したがって、ある特定の規範に基づいて、
アリーナの中での特例措置を認めることは、
それ以外の規範による無数の特例措置の可能性を許容することになり、
結局、アリーナの中での闘技自体を無効化する。

PRIDEと表現のアリーナの違いは、PRIDEは中立的なルールを
策定する機関が存在するのに対し、表現のアリーナの場合、
ルールを決定する規範自体がアリーナの選手なのだから、
結局、他の規範をすべて排除するという行為を認めることになり、
自由意志による規範の決定を不可能にしてしまう。


>児童の性表現に関してのみ自由主義を否定すると言う特別ルールを採用し
>その他の性表現については否定しない場合も、
>やっぱり社会全体の自由主義が否定されたと評価されるのだろうか?

したがって、自由の論理にもとづく合理的な説明ができないかぎり、
自由主義の否定だと評価しなければならないだろう。
とはいえ、「どのような場合でも、自由が一時に失われるということは、
あるものではない」(ハイエク)というように、
ある規制が行われたからといって、社会全体が自由主義以外の体制に
移行したとはいえないだろうけどね。




839 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 17:41:26 ID:LZ4BGQsP


>その必要性がどれだけ切実さをもって一般に理解されるかだよね。

政治戦略的な問題としてはそうなんだけど、単純にその問題を議論するだけなら、
歴史的にどのようなことがあったかを基準にして、
将来を占うべきだ、というのが正しい解答だと思う。

ある経済政策が過去に失敗しているのに、
その政策を取るべきかどうかが議題にあがって、
「政策をとった先の世界を知ることが出来ないのだから、
その政策を取るべきか否かは無区別である」
と答える人間は、愚かだとしかいえない。


>であれば、リアルタイムではやっぱり反社会的だったのであり、
>その時代ではあるかないかも理解されなかった普遍性こそが
>付属物に過ぎないと考える。

反社会的な小説は多くあっただろうけど、
その中でも特にスタンダールやゲーテが残ってきたのは、
やはり小説に内在する普遍性が原因だし、
作品が受容された時代から見ても、スタンダールの「自由恋愛」が
反社会的に感じられたから人々が読んだのではなく、
反社会的であったとしても、「自由恋愛」という題材が
人々の心をひきつけたからだ。

反社会的な内容であっても、その内容自体が反社会性を超えて
受容されるというのはいくらでもあること。
そして、そうした新しい規範が次の時代を作っていくわけだから、
やっぱり、反社会性を単純に付与すれば
それで事足りるというものではないと思う。


>規制のある世界を狡猾に立ち回るための処世術を説いているんだよね。

処世術としては理解できます。社会の制度設計として正しいかどうかというのは、
また別の問題だと思うけど。



                (2011/3/31  entry)


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captain_nemo_1982 at 15:00│Comments(0)TrackBack(0)青識亜論氏との議論 

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