2013年04月29日

あやふやな 「個人の意志」 の無謬を無条件に肯定する 「自由主義思想」 が、果たして万人の利益を約束できるほどの普遍性を備えているのかという疑問が発せられねばならない


青識亜論氏との議論


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 このエントリは 内閣府スレ★10 より引用しました




741 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 13:54:23 ID:f9AyjlO9

「自由主義」 の枠内であれば理念として整合性もあり
ケチのつけようが無いんだけど、「大衆の原像」 を的確に繰り込む
視点がないと、思想として血が通わないと思うんだよね。

>>個人の意志より上位の基準を排除することが、
>>自由主義の原理となっている。


>>国家の介入がないことが、まさに自由意志によって
>>規範が形成される前提条件である。


俺がもっとも気になるのはこの点で、「何物からも干渉されない
独立した個人の自由意志」 が万民にあまねく存在し、しかも

「欲望と倫理の間の『バランス』」 を、「個人が自分自身の意志において決定」

出来るほどの知性・理性を最初から備えているということが前提となっている。

しかし、人間は 「他人に迷惑をかけてはいけない」 という黄金律さえ
理解していれば、それだけで倫理的に振舞えるほど強くも賢くも無い。
「やってはいけない」 と知りつつも誘惑に負けてしまうのが人間である。

そもそも、「迷惑」「倫理」の解釈自体が主観に左右されるのであり、
下手をしたら最低限の黄金律すら平然と無視するような人間の横行が見聞され、
だからこそ現実社会に大小の利害や摩擦が発生し続けるのである。


743 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 13:56:46 ID:f9AyjlO9

となれば、そのようなあやふやな 「個人の意志」 の無謬を
無条件に肯定する 「自由主義思想」 が、果たして万人の利益を
約束できるほどの普遍性を備えているのかという疑問が
発せられなければならない。したがって、

>>いまや、キリスト教倫理のような形而上学的基準は社会に存在しない

と言うよりもむしろ、自由主義思想も他にある様々な原理の一つに過ぎず、
それはキリスト教的倫理などの他の原理と並列に配置され、
「万人の利益のため」 という有史以来の普遍性をもつ最上位原則により
時代や地域の特性に配慮した上で取捨選択されるべきであろう。

 (形而上という言葉の定義が俺の理解しているところと
   相違があるように思えるが、ここでは君の文脈に従う)


745 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 13:58:02 ID:f9AyjlO9

>>快楽の追求が規範の形成に決定的役割を果たしたのは自明である。

一方向にしか作用しない因果関係が存在していたと言うこと?
時代の風潮を創作者が敏感に感じ取り、表現に反映させると言う
側面を併せ持つ、相関関係をなしていたのではないだろうか。
「歌は世につれ、世は歌につれ」 って奴だね。
双方向の情報インフラが急速に充実しつつあるネット社会では、
なおのことお互いの情報収集が活発になっていくことだろう。

まあそれはそれとして、
性的規範で言えば、その役割は規範の緩和という一方向のみに
働いてきたという現実があるわけだよね。
社会倫理的観点からの対抗力が働くことがあったとしても、
自由意志の集合のみで、一度拡散を許した性的規範を
再び一定の枠内に押し込めることは不可能。
 (その原因は性的表現の強烈な誘引力に発する)

情報インフラやテクノロジーが発達した近代であればあるほど
倫理意識や遵法意識の低い小悪党のやったもん勝ちになるだけで、
たいていは何らかの積極的な圧力の行使、時には権力の
手を介さずして、性規範を下方修正することは出来ない。

もっとも、一度規制を受けた表現が時代を経て許容されるという
実例も多数存在するので、場当たり的に倫理的立場から圧力をかけても
長期的には無意味であると言う反論もありうるだろう。
しかし、将来的に性的規範がどのように変遷するかと言う推測を
正確に立てることは不可能であり、その時代においては必然性が
あったという事情により正当化されるべきである。


746 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 13:59:16 ID:f9AyjlO9

>>自由主義の要諦は、この力の論理を否定し、
>>自由意志による決定でこれに変えることだ。


対外的だろうと対内的だろうと、自由主義の維持に
力の論理は不可欠であると考える。

「自由主義を否定する自由」 は容認されるのか?
如何に自由主義といえど、そのパラダイム内にとどまる限り、
それは不可能だろう。
すなわち、「自由のための圧力」 という逆説的論理を用いずして
自由主義はその体制を護持できない。

これは、あやふやな意志しか持ち合わせない人間まで一緒くたに
「倫理と欲望を客観視し、相対化し、理性により選択出来る」 という
前提をはめ込んでしまう事により生じる矛盾で、
児童保護と少年法厳罰化が同時に進行すると言う現象にも
同じような矛盾が見て取れる。

この矛盾を認識した上で、表現の自由を考えてみる。
表現に 「規範の選択肢」 という役割が与えられるならば、
その流通に市場原理や快楽原則に準じた偏りが発生してはならない。
それは 「表現の自由を否定する自由」であり、排除されるべきである。
ゆえに、あらゆるレベルで段階的に規範を提示する表現が
満遍なく流通するよう、国家権力が統制をかけなければならない。

もっとも、ある程度の理性と知識と想像力を有した人間なら、
極端に突出した表現を見て、段階的に中庸を知ることは可能だろう。
氷と沸騰したお湯の温度を知るだけで、目盛りを刻んで温度計を
作るようなものである。


751 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 14:05:07 ID:f9AyjlO9

しかしそれでもまだ解決しなければならない問題がのこる。
それは、表現の自由の理想を積極的に実現する為の意欲を、
判断する主体である国民が等しく有していなければ、
民主的に規範を作り上げると言うシステムが機能しないという事である。
「いけないと思いつつも誘惑に負けてしまう」 ような人間では、
規範選択の主体として任を与えるに不適当であるからだ。
すなわち、「規範とは、物質的快楽と精神的価値の均衡において
実現するのであり、どちらか一方のみでは片手落ちとなる。」


さらに、そのような個人個人による 「規範候補」 の多寡をどのようにして
社会が認識するかと言う技術的問題もある。
「面倒くさいから意思表明しない」 という人間の存在を黙認するようでは、
突出した価値観を有する集団 (たとえば宗教団体) の跋扈を
招くことは必至である。

以上を踏まえて表現の自由の理想を達成しようとするならば、
万民が主権を有する直接民主制を捨て、
賢人政治的体制を選択せねばならない。
一定の基準に達した 「理性的で確固たる意思を有する個人」 を選定し、
彼らが市場原理に基づき流通する表現を見て判断するという方法である。

そしてそれは、すでに議会制民主主義というシステムとして結実している。
もっとも、理知的な人間からいい加減な人間に至るまで、
成人に達していれば公平に選挙権が与えられる普通選挙制では、
 (禁治産者など、制限されている人間は除く)
ある程度ポピュリズムが幅を利かせてしまうのは止むを得ない。
科挙制度的選定といったプラグマティズムは、近代社会にそぐわない。
かといって、現実を変える有効な手立ても存在しない。
理想と現実の狭間で宙吊りになりながら、なんとかごまかしながら
やっていく他は無いと言うことだろう。


753 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 14:05:41 ID:f9AyjlO9

>>「児童一般」「女性一般」が受ける不快感というのは、
>>アリーナの中の戦いに関する問題なのだから、
>>それに反対する闘技によって解決しなければならない。


順序が前後するがこれがもともと本題。

コアな規制推進派の思想的背景がなんと名づけられてるのか知らないが、
仮に 「児童の人権真理教」 だとする。
「アリーナ」 において、どの原理を採用するかは状況に応じるべきであり
「自由主義」 も 「キリスト教的原理」 も 「児童の人権真理教」 も
公平に原理基準として選択を吟味されるべきである。
少なくとも、「自由主義」 のみを採用すべきと言う強制力は存在しないし、
「自由主義」 を選択したとしても、「選択基準としての表現」 を機能させる
システムは存在せず、受益の約束が履行される保証もない。

そして、仮に推進派が性表現全般においては 「自由主義」 の採用を
認めたとしても、児童に限っては 「児童の人権真理教」 を採用すべきと
主張することは十分ありうる。


754 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 14:06:04 ID:f9AyjlO9

今は無き総合格闘技のPRIDEでは、体重差が15K以上ある場合は、
4点ポジションにおける頭部・顔面攻撃を禁止とするかどうか、
体重の軽い選手が選択できるという特別ルールがあった。
状況によって、同じ攻撃がルール内であるか反則であるかが分かれていた。

4点ポジションとは、両手両膝をついたいわゆる亀状態の体勢のことで、
この状態の相手の頭部や顔面に攻撃を加えることは
非常に危険とされているのですが、反面KO決着が多くなり、
試合が非常にエキサイティングかつスリリングなものとなります。


「アリーナ」 において、「18歳以上」 の試合では 「不快感」 を
ルール内であると認めても、「18歳未満」 の試合では反則となる
特別ルールを適用するという選択肢が存在するのである。

>>表現次元と行為次元の間の区別がなくなり、規範の決定が上位の規範に
>>束縛されるという、自由主義の否定を帰結してしまう。

>>表現の自由の範囲を民主主義的な意思決定によって
>>自在に変更可能であれば、それは民主主義の自己否定に
>>容易につながる。


児童の性表現に関してのみ自由主義を否定すると言う特別ルールを採用し
その他の性表現については否定しない場合も、
やっぱり社会全体の自由主義が否定されたと評価されるのだろうか?


756 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 14:06:39 ID:f9AyjlO9

>>しかし、長期的にはわれわれは皆死んでしまうのであって、
>>自由な表現が最初から行われていたならば生まれたであろう
>>表現や進歩を、規制によって圧殺したり
>>遅らせたりするのは、やはり避ける必要がある。


摂氏233度氏によると、「規制のある社会にいる我々は、
規制の無い社会をうかがい知ることは出来ない」 そうだから、
その必要性がどれだけ切実さをもって一般に理解されるかだよね。

摂氏233度氏とは、2ch ニュース議論板に出没していた
小児性愛者を自認する理系の論客です



>>スタンダールの価値はその時代の規範に反抗したことによるのではなく、
>>次の時代に残る普遍性を持っていたからであり、
>>反社会性は付属物にすぎない。


その普遍性は、次の時代にならないと評価されなかったんでしょ?
「嘲笑の渦中」 にあったからには。

であれば、リアルタイムではやっぱり反社会的だったのであり、
その時代ではあるかないかも理解されなかった普遍性こそが
付属物に過ぎないと考える。

というか、俺の言ってることはそんな難しいことじゃなくて、
規制のある世界を狡猾に立ち回るための処世術を説いているんだよね。

規制社会に愚痴言ったって始まらない、世の中変えるよりも
自分を変えるほうがよっぽど簡単だし幸福も追求できる、と。

コアな規制反対派にとって見れば、単なる敗北主義として一蹴されそうだが、
それならそれで勝手にしてくれって感じだよね。


757 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/12(月) 14:06:57 ID:f9AyjlO9

>>708

そこに書いてあることは、「他の様々な要因によって
規制された表現が許容される時代が到来した」 という
俺の主張と矛盾しないと思うんだが・・・・・・・

ただ、釈迦に説法って言うのは買いかぶりすぎ。
正直いろいろ勉強になるので、ご教示はありがたくいただきたい。



                 (2011/3/30  entry)


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