2013年04月29日

自由主義国家は規範を示す主体ではなく、国民の自由意志を体現する存在でなければならない


青識亜論氏との議論


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 このエントリは 内閣府スレ★10 より引用しました




705 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 21:00:28 ID:HuGO4dL1


>世上に流通する様々な表現は、「規範決定の判断材料」 として
>理解されているわけでもなく、機能しているわけでもない。
>それらは基本的に供給する側も消費する側も市場原理、
>快楽原則に則って使役されている

これが表現の自由と規範の問題を考える上での、最大のミソだと思う。

先に書いたように、自由な社会においては、諸規範は自由意志によって
選定された社会の紐帯であるという以上の意味を持たない。

価値観が圧倒的に多様化した近代において、キリスト教社会や
古代ギリシャがそうだったように、規範を形而上学から導かれる
普遍的道徳や倫理と一致させることは不可能だからである。

われわれが自由意志というとき、それは理性や信仰といった
形而上学的な判断を下す知性だけでなく、
快楽や利益を追求する欲望も含まれている。
そして、欲望と倫理の間の「バランス」は、
個人が自分自身の意志において決定するしかない。

キリスト教社会であれば、そうしたバランスは信仰、
もっと言えば教会によって決定されたのだろうが、
いまや、キリスト教倫理のような形而上学的基準は社会に存在しないし、
個人の意志より上位の基準を排除することが、自由主義の原理となっている。
(哲学者のリチャード・ローティは、『リベラル・ユートピアという希望』の中で、
こうした形而上学的原理を持たない倫理を「原理なき倫理」と呼んでいる)

だから、「国家の強力な介入無しに実現できるとは考えがたい」
というのはむしろ逆で、国家の介入がないことが、
まさに自由意志によって規範が形成される前提条件である。

市場原理や物質的快楽と、理性や信仰といった精神的価値が、
表現のアリーナの中でぶつかり、闘争し、
均衡する場所に自由主義社会の規範が存在する。




706 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 21:00:57 ID:HuGO4dL1


>話が性表現ならなおさらで、大概は性欲充足目的としての実用性のみが
>要求されると言って過言ではなく……

抽象的な議論になったので、表現と社会規範の形成の問題に関して、
特に性的規範に的を絞って、具体的に掘り下げてみたい。

ポルノが規範を形成するというと、多くの人は首を傾げるだろうが、
こと性に関する今日の社会規範は、直接ないし間接に
性表現が形成したと言っていい。

ポルノや風俗画と社会規範の発展の関係を分析した著作としては、
エドゥアルト・フックスの『風俗の歴史』が有名である。
彼によれば、道学者(モラリスト)や宗教家の説教が
社会規範を作り出すというのは、
「精神病院行きの道学者の意見」でしかなく、実際には経済的利益、物質生活、
そして快楽原則こそが、社会規範を形成する土台なのだという。

マルクス主義に影響を受けたフックスの所説を引かずとも、
快楽の追求が規範の形成に決定的役割を果たしたのは自明である。
例えば、ルネッサンスにおける肉体的快楽の賛美を主導した著作、
ボッカチオの『デカメロン』からブラントームの『艶婦伝』にいたるまで、
その作品としては性的快楽を描いたものだが、
同時に性的規範を大きく変化させてきた。

彼らほど極端でなくとも、今日に至るまでつづく自由恋愛という性的規範は、
スタンダールやゲーテの恋愛小説、教養小説が作り出したものであろうが、
社会規範の変化を念頭に置きながら、
彼らの著作を消費したものはほとんどいないだろう。

したがって、自由意志による規範の形成を掲げるならば、
自由な快楽の追求も、自由意志の中に含められるべきなのは言うまでもない。
快楽の追求を度外視して、キリスト教的性倫理から今日の性的放蕩への変化を
合理的に説明することはできないだろう。
規範とは、物質的快楽と精神的価値の均衡において実現するのであり、
どちらか一方のみでは片手落ちとなる。





707 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 21:02:52 ID:HuGO4dL1


>たとえば児童にとって不快、屈辱であると感じるならば、……
>「影響を及ぼしているのだから行為以外の何物でもない」 と
>解釈されても無理は無いのではないか?

以前にも述べたように、これはアンドレア・ドゥオーキン以来の
反ポルノ運動のロジックだよね。
反論が的確で非常に助かる。この部分も、僕の議論のミソ。

もし、表現次元の行為、アリーナでの戦い自体が個人に不快感を与えることを
問題としてしまうなら、表現次元と行為次元の間の区別がなくなり、
規範の決定が上位の規範に束縛されるという、
自由主義の否定を帰結してしまう。

しかしだからといって、個人の人権を直接侵害する表現を
放置することはできない。
虚偽の事実による名誉権の侵害や、私人の生活の暴露による
プライバシー権の侵害は、自由と自由の衝突の典型的な例であり、
「他者の自由を侵害しない限りにおいての自由」という
ミルの自由の原則に照らし合わせて、
自由の範囲から除かれなければならない。

したがって、他者、つまり個人や私的団体の権利が、
直接的に表現によって侵犯を受ける場合と、
アリーナで自己の価値観や立場が攻撃を受け、
それによって受ける不快感を区別する必要がある。

非常に大雑把な言い方をすれば、後者はあくまでアリーナの中での
戦いであるのにたいし、前者は場外乱闘にあたる。

例えば、名誉権は個人や法人、法人相当の団体には認められるが
  (個人以外にはほとんど認めないという見解もある)、
アメリカ人、女性、東京人といったような、ある立場や
漠然とした集団には適用されない。
もしそうでなければ、表現の自由は実際には内実のない概念となるだろう。

ロナルド・ドゥオーキン(A・ドゥオーキンではない)が『法の帝国』で
論じているように、表現の自由は民主主義の意思決定プロセスを
担保する権利であり、表現の自由の範囲を民主主義的な意思決定によって
自在に変更可能であれば、それは民主主義の自己否定に容易につながる。
だから、このあたりのジレンマの解決は、
表現の自由を論じるうえで欠かせない問題であるといえる。

抽象的な方向へ議論がずれたけど、要するに、
「児童一般」「女性一般」が受ける不快感というのは、
アリーナの中の戦いに関する問題なのだから、
それに反対する闘技によって解決しなければならない。




708 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 21:03:16 ID:HuGO4dL1


>「制限されたが最後、その表現に内包される規範は2度と陽の目を見ない」
>という前提があると思われる

ごめん。ちょっと説明が足りなかったかな。

『蟹工船』やプロレタリア文学の規制は、
自由主義以外のロジックによって行われた。
社会全体が国家主義や未成熟な近代社会の段階だったわけで、
これは時代的な問題。

『チャタレイ夫人の恋人』は、悪徳の栄え事件の判例の延長にあるけど、
この裁判は日本国憲法施行から間もない時期に行われたので、
表現の自由があまり議論されなかった。
自由主義以前の論理、憲法よりも大審院判決との連続性が
問題になったとさえ言える。
(このあたりの経緯については、captain_nemo_1982さんには
釈迦に説法かもしれないけど、奥平、吉行、環『性表現の自由』をお勧めする)

こうした表現自体は、歴史的に自由主義(特に表現の自由)が
受容されるにつれて解放されていったわけで、
当然、規範によって排除された表現も、
規範の変化によって認められ、復活することはある。

ただ問題になるのは、そういう規範の変化をどのようにして行うのか、
ということ。
それが自由主義と、自由主義以外の社会のメルクマールになると思う。
これについては次の段落で。




709 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 21:03:50 ID:HuGO4dL1


>表現のみが規範の判断基準の役を担う必要は無く……
>民主国家において国民主権を代行する国家が基準を示すと言う
>形態をとらざるを得ない

これが最大の問題。

社会的に認められる規範(または規範の決定主体)の変化には、
いろいろな方法がある。
前近代において優勢を占めたのは、「力の論理」だった。
例えば、ケルト部族が持っているドルイドや精霊信仰といった規範を
変化させたのは、キリスト教国の侵略であり、
彼らが武力によってキリスト教倫理の正当性を示したからだった。

自由主義の要諦は、この力の論理を否定し、
自由意志による決定でこれに変えることだ。
確かに、力の論理による支配から、自由主義・民主主義の論理へ
世界を転換させるためには、力でもって力の論理にあたる必要があった。

フランス革命や、アメリカ独立戦争、さらには太平洋戦争もそうだろう。
そしてまた、自国の自由主義・民主主義の論理を維持するために、
対外的に力でもって戦う必要もあるだろう。
しかしともかく、自由主義内部の論理としては、
個人の自由意志が最上段に置かれる。
  (内側へ自由主義、外側へ武力というのは、
    なんとなくネオコン臭い感じがするが……)

だから、自由主義国家は規範を示す主体ではなく、
国民の自由意志、言い換えれば表現のアリーナによって形成された規範を
体現する存在でなければならない。
信仰や力、血統によって上位に立つ権威者が、
規範を決定する国家とは、根本的に異なっている。

いったん形成された規範によって、行為の次元でパターナルとして
振舞うという点では一緒だが、形成のプロセスにおいて、明確な違いがある。
  (ただし、自由主義のもとで形成される規範が、
    どの程度のパターナリズムを許容するかという点については、
     別の議論が必要だろう)

結論付けると、国民の主権を代表する国家は、規範にもとづいて
行為を制限するが、規範の形成過程、
つまり表現に対しては、原則的に介入すべきではない。
以上の「表現の自由=民主主義」という見解は、
ここまで原理主義的な形ではないにせよ、
前出のロナルド・ドゥオーキンのほか、
ジョン・ロールズも同様の立場をとっている。




710 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 21:04:14 ID:HuGO4dL1


国家権力も結局は表現の多様性の拡大に抗しきれないだろうというのは、
僕も同じ立場。
「世界史は自由の進歩である」(ヘーゲル)というように、
結局、人間の自由な着想を、当局者の良識やら世間一般の常識で
抑えるのは不可能だ。

しかし、長期的にはわれわれは皆死んでしまうのであって、
自由な表現が最初から行われていたならば生まれたであろう表現や進歩を、
規制によって圧殺したり遅らせたりするのは、やはり避ける必要がある。


>反社会表現の存在意義とは、反社会的であるという一点に尽きる。
>(技巧やイマジネーションと言った文化的・芸術的意義については、
>必ずしも反社会表現にて発揮される必要は無い)

これはダウトかな。
ゲーテにせよスタンダールにせよ、反社会的表現をするために
あれほどの著作をものしたわけではない。
しかし、まさにゲーテが自分の著作の中で言ったように、
「あらゆる偉大な真理は嘲笑の渦中より生まれいずる」
 (ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』)
のであって、後の時代の規範ともなる偉大な表現は、
前の時代の規範にしばしばそむくものだ。

スタンダールの価値はその時代の規範に反抗したことによるのではなく、
次の時代に残る普遍性を持っていたからであり、
反社会性は付属物にすぎない。
サヴォナローラの狂信がなければ、フィレンツェにはボッティチェリと並び立つ
美術が何倍も生まれたかもしれない。




>猪瀬直樹 「(戦前は) 言論の自由が無かったからと信じられてるけど、
>         言論の自由はかなりの部分まで認められてたんですよ。

猪瀬直樹の言うことも一理あるけど、
一方で、多数の転向を強いられた文学者や哲学者がいるのも
事実だからなあ……。

先にあげたエドゥアルト・フックスの『風俗の歴史』だって、
翻訳者の安田徳太郎は戦前に翻訳原稿を没収されて、危うく破棄されかけた。
(ただし、管理がずさんだったために、破棄されず手元に戻ってきたようだ)
安田の盟友だった山本宣治も、性風俗研究で革新的な研究をしながらも、
イデオロギー的な理由で弾圧を受けてるしね。
そのせいで中座した研究も多い。




711 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 21:04:52 ID:HuGO4dL1


>反社会表現創作者の矜持ってのは、こういうところに立ち表れるんだよ。
>規制だなんだって騒がれるのは、かえって勲章だ、
>くらいに胸張ってもらわないとね。

なんだかんだ書いたけど、君のそういう態度は嫌いじゃない。
もちろん、社会制度を考える上で、創作者としての心構えを
持ち込むわけにはいかないけど。

上で挙げた『性表現の自由』で吉行淳之介が述べていることなんだが、
「四畳半襖の下張裁判」だと、「田山先生の作品をポルノにしてやろう」
という悪戯心が被告・検察の両側にあったそうで、
終始「和やかなムード」で裁判が進んだそうだ。

まあ、これも判例になっているんだから困ったものと言えば
困ったものなんだが、そういう反社会的表現に対する確信犯的な覚悟は、
田山花袋にせよ吉行淳之介にせよ、敬意に値するものなのかもしれない。





               (2011/3/29 entry)


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