2013年04月29日

表現は、 「規範決定の判断材料」 として理解されているわけでもなく、機能しているわけでもない


青識亜論氏との議論


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 このエントリは 内閣府スレ★10 より引用しました





613 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 07:46:11 ID:DSe7YDU4

>>468-472

>>僕は空想ポルノ規制と実写ポルノ規制の間には、
>>問題に質的な差があると考えている。


その見解は、表現の自由の有用性に言及した考察において、
一つの到達点であると評価できる。
しかしながら、それをもって 「表現を規範によって制限するな」 
と言うならば、実態としてその理念が現実社会に根を下ろし、
システマチックに運用されていることが条件であると考える。

世上に流通する様々な表現は、「規範決定の判断材料」 として
理解されているわけでもなく、機能しているわけでもない。
それらは基本的に供給する側も消費する側も
市場原理、快楽原則に則って使役されているのであり、
仮にその理念が副次的にしろ実現するとするならば、
あらゆる表現は規範の判断材料として様々なレベルでグラデーションを
形成しながらバランスよく頒布され、万人が偏り無く目を通し評価を
下すというシステムが存在し、機能していなければならない。

そのような市場原理に逆らう形での流通は、国家権力の
強大な介入無しに実現できるとは考えがたい。
もしくは、万民がその崇高な理念を理解し、
満遍なくバランスよく出来る限り数多くの表現に、
理性的に接すると言う努力を保持し続けなければならない。

規範決定の判断材料として比較的機能しうると思われる
報道メディアや言論・思想などの分野においてすら、
市場原理、快楽原則から自由であるとは到底言えない。


614 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 07:47:24 ID:DSe7YDU4

話が性表現ならなおさらで、大概は性欲充足目的としての実用性のみが
要求されると言って過言ではなく、そのような目的において使役される事が、
対象となる集団、たとえば児童にとって不快、屈辱であると感じるならば、
  (前述の通り、必ずしも児童本人がそう感じる必要は無い)
「影響を及ぼしているのだから行為以外の何物でもない」 と解釈されても
無理は無いのではないか?

となれば、「表現は規範で制限すべきではない」 なる物言いは、
「そういう社会が実現してからの話」 という反論を即座に呼び込むことになる。

>>将来的に規範を変化させうる「表現」については、
>>制限するすべきでないからである。


「制限されたが最後、その表現に内包される規範は2度と陽の目を見ない」
という前提があると思われるが、蟹工船やチャタレイ夫人の恋人が
規制後年月を経て完全に復活した歴史的事実と矛盾する。
もっともこれらの例は、表現自体が規範の変化を引き寄せたと言うより、
他の様々な要因によって規制された表現が許容される時代が
到来したと理解されるべきであろう。

であれば、表現のみが規範の判断基準の役を担う必要は無く、
仮に反社会的に突出した規範を提示していたとしても、
それは民主国家において国民主権を代行する国家が
基準を示すと言う形態をとらざるを得ないと考える。



616 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 07:48:15 ID:DSe7YDU4

ちなみに、俺は児童を性の対象とする創作表現が、直ちに児童の人権を
侵害すると言う社会の合意形成には、いまのところ至っていないと思う。
差別表現などがタブー視されたのは、同和団体や障害者団体が
過激な運動方針でマスコミなどに働きかけたと言う側面が強い。

しかし、80年代のフェミニストによる性の商品化反対運動は、
「女性を差別する表現にステッカーを貼る」 という穏便な運動方針が
仇となったか、マスメディアを屈服させるに至らず、
また全くと言っていいほど国民の支持を取り付けることも出来なかった。
大人の女性が自発的に性的イメージを露出する行為を、
人権侵害と捕らえるのは流石に無理があったということだろう。

児ポ規制推進運動も似たり寄ったりの穏便さであったと思われるが、
運動が始まってから10年足らずで法規制にこぎつけてしまった。

同じ性の対象でも児童となれば話は別とばかりに世論は同意を示したと
言うことであり、今はまだ合意が形成されていないとしても、
児童の人権の範囲がこの先拡大の一途を辿るならば、
創作表現規制は時間の問題であると考える。


618 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 07:49:19 ID:DSe7YDU4

これだけの論考に一方的にケチをつけるだけでは不公平なので、
俺の方からも表現の自由に対する見解を述べておく。
といっても、積極的に変革を求めると言う動機は持ち合わせていない為、
単なる現状追認となってしまうが、先に述べたとおり、
「規範の判断材料としての表現」 という側面は、国民主権を代行する
国家権力がその基準を示すと言う現行のシステムで特に問題はないと考える。

実際、児ポ表現や暴力表現に対する規制は昔に比べ強化されてるが、
性表現全体の自由は拡大しつづける一方であり、これは結局のところ
国家権力にしても判断基準は社会通念に追随せざるを得ないと言う
現実を示している。

それよりも、表現規制に関してはむしろ表現者の自省をこそ促したい。
一時期、鬼畜系カルチャーに傾倒していた経験から言えば、
反社会表現の存在意義とは、反社会的であるという一点に尽きる。
 (技巧やイマジネーションと言った文化的・芸術的意義については、
   必ずしも反社会表現にて発揮される必要は無い)

となれば、規制派のクレームは、表現者にとって勲章である。
社会通念から逸脱していると公に認められたと同じことだからだ。
なのに、反社会表現に手を染めていながら、規制を受けたからと言って
社会体制の庇護を求めるとは、一体どういう神経なのか?志が低すぎる。

愚痴愚痴言ってないで、アングラに潜り込んででも初志貫徹するか、
法に抵触しない形で新しい表現方法を模索するなどの
したたかさを見せて欲しいね。


619 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 07:49:52 ID:DSe7YDU4


したたかさの一例 ↓


田原総一郎責任編集 朝まで生テレビ収録本
「日本はなぜ負ける戦争をしたのか」 (株)アスキー発行

猪瀬直樹  「(戦前は) 言論の自由が無かったからと信じられてるけど、
         言論の自由はかなりの部分まで認められてたんですよ。
         例えば発禁になるでしょ。すると、「発禁の書」 って広告出して
          また売るんですよ。そうするとかえって売れた。
          だって要するに伏字を増やせばいいわけだから。

          いろんな表現の仕方があったし、情報的にかなりきちっとした
         見通しを書いた本もいっぱい出てます。
         当時、日本とアメリカが戦争したらどうなるかと、そういうことを全部
         シミュレーションした小説がいっぱい出てますよ。
         かなり正確に書いてます」 

 もちろん、ギミックとして反権力のスタンスを取るのは構わない。
仮想敵を明確に定めることは、創作のモチベーションにもなるだろうし、
それだけで表現の社会的価値は(マイナス方向にだが)上乗せされるだろう。
国家権力の暴走をけん制する役目も果たせるかもしれない。

そして、そのような規制側との共生関係を創作者、受け手が許容することで、
表現規制に関する問題はほぼ解決できると考える。



622 名前:captain_nemo_1982 ◆Rkh.UWPg4k [sage]
     投稿日:2009/01/11(日) 08:07:42 ID:DSe7YDU4

したたかさの一例 その2 ↓ 売国奴スレからのコピペ

その点、映画 「バトルロワイアル」 の監督、故・深作欣二は格が違う。
ご存知のとおり、「バトルロワイアル」 は「中学生42人が殺しあう映画」 という
過激な内容で規制論議を巻き起こしたわけだが、
深作監督はそんなことにお構いなく、

 「私には暴力がいけないと言う思いは全くない」
  
と堂々と言い放ち、同じ口で
 
 「この映画はぜひ子どもたちに見て欲しい」

などとも公言する。

深作監督にとっては、バイオレンスこそがヒューマニズムの真髄なのであり、
「中学生42人が殺しあう映画」 でその暴力賛美思想を子どもたちに
刷り込むことが日本の明るい未来につながると本気で信じていた節がある。

また、社会良識との距離をきっちり視野に入れ、

 「R-18なら喧嘩もしたが、R-15くらいつかんかったら、
  『それほど安全に撮ったのか?』 と軽蔑されても腹が立つ」

と、確信犯的にR-15指定を前提とした映画を作っておきながら、規制推進派の
故・石井紘基議員 (民主党) と正面切って渡り合い、
話題を盛り上げて大ヒットにつなげる抜け目のなさ。

反社会表現創作者の矜持ってのは、こういうところに立ち表れるんだよ。
規制だなんだって騒がれるのは、かえって勲章だ、
くらいに胸張ってもらわないとね。





                  (2011/3/28 entry)



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