2013年04月29日

規範形成の過程は、あくまで完全な自由でなければならない


青識亜論氏との議論


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 このエントリは 内閣府スレ★10 より引用しました



468 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/09(金) 14:07:08 ID:U/sG59/l


空想ポルノ規制と実写ポルノ規制の間の差について、
captain_nemo_1982さんの議論と絡んで、個人的な意見を。


「captain_nemo_1982さんの議論」 とは、
感情論で児童の人権を線引きする規制反対派
における私の主張を指します。


>単純所持や二次創作物の流布に至るまでが
>実在の児童の人権を侵害すると考えている

これはおそらく事実で、ポルノが犯罪を増加させるか否か
(その科学的根拠があるか否か)にかかわらず、
ポルノは実在の児童・女性の人権を侵害するというのが、
ドゥオーキン以来の反ポルノ運動の旗印だった。

とはいえ、captain_nemo_1982さんが書かれているように、
これは感情論にすぎない。
それでは、彼らの感情論と空想ポルノ規制反対論を区別するのに、
本当に「客観的・普遍的根拠」が必要なのだろうか?
僕は空想ポルノ規制と実写ポルノ規制の間には、問題に
質的な差があると考えている。

表現の自由はあらゆる自由の上段に位置している、
と一般に考えられている。

あらゆる自由は法によって制限を加えられ、
法は規範・慣習(ノルム)によって形成される。
例えば、「児童の人権は(特別に)保護されるべき」という、法を論じるうえで
われわれが共有する前提は、
近代に入って形成された「児童保護」という規範倫理だ。

児童に売買春をさせてはならないというのは、児童が性の自己決定能力を
欠いているという前提に基づくが、
婚姻年齢の歴史的推移やカノン法学における
(今日の意味での)幼児性愛の扱いを考えれば、
こうした前提が時代的な規範にすぎないことは明らかだろう。

ということは、自由主義と言いながら、われわれは個人の自由を、
全体の規範にあわせて制限していることになる。




469 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/09(金) 14:07:33 ID:U/sG59/l


これはある意味で当たり前の話で、すべての個人が完全に自由に振舞うことは、
すべての人間が自由を失うに等しいからだ。
完全な自由とは、結局、強者による弱者の支配に他ならない。

ホッブズが言ったように、「万人の万人に対する闘争」を生み、
自由は失われる。
だからまず第一に、メタ的な論理として、自由を否定する自由、
他者の自由を侵害する自由は、自由の自己否定につながるので認められない。

J・S・ミルが『自由論』で論じたように、自由とは
「他者の自由を侵害しない限りにおいての」自由でなければならない。

第二に、そうした自由から発する行為は、社会の紐帯となる規範によって
制限されなければならない。
「児童に性の自己決定能力が欠いているとする根拠は何か?」
と問われたならば、
結局、それが社会的な合意、倫理規範だからという回答以外は不可能だ。
それゆえ、規範の否定は、突き詰めればあらゆる法の否定に他ならない。

そうすると、今度はその規範はなによって定められるべきか? 
という問題が発生する。
もっと言えば、自由主義の枠内で、自由を束縛する規範を、
どうやって肯定するのか、ということだ。
例えば、単に多数者の感情が求めるものが、規範であるとするならば、
それは力が数に置き換わっただけで、「万人の万人に対する闘争」状態を
脱することはできないだろう。
この問題に関しては、おそらく絶対的な解答を期待することはできない
(少なくとも今の社会科学の枠内では)。

そこで、近代社会は次善の策として、表現の自由と民主主義をとってきた。
この二つは、「表現の自由=民主主義」と言われるように、表裏一体である。

民主主義を単なる多数決ととらえ、多数者の規範を
絶対的なものととらえるならば、それは多数者独裁にすぎない。

あらゆる規範が相対的なものとしてとらえられ、
表現の闘技場(アリーナ)で意見が戦わされ、
そして各人が自己の信ずる規範を「自由な意思によって」選択した結果として
形成される規範のみが、自由主義のもとで自由を制限するに値する規範である。
(これが、不十分ながら前述の問に対する解答となる)

そこで選ばれた規範に従い、法が作られ、われわれの行為は制限される。





470 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/09(金) 14:08:16 ID:U/sG59/l


ここで重要なのは、その規範形成の過程は、
あくまで完全な自由でなければならないということだ。
それが表現の自由の意味である。

人は規範を形成する。何によってか? 情報によってである。
様々に異なる規範が、自由な表現という形で闘争する。
われわれはそれを見て、自己の規範を自己の自由な意志によって形成する。

表現の結果として、人々に受け入れられなかった規範は、
社会全体の規範とはなりえず、人々の行為を制限することは出来ない。

ときに、その時代の社会的な規範とされていたものを、そうでなかった規範が、
繰り返し行われる表現活動によって、打ち破られることがある。
例えば、自由恋愛や、職業差別の撤廃や、児童保護や、蓄財の肯定などは
その典型であろう。
極言すれば民主主義とは、表現の闘技場に投げ込まれるあらゆる規範に、
制限を設けないということだ。

「行為」はその社会・時代の規範に従わなければならないが、
「表現」は規範を形成する前提なので、規範に従う必要はない。
自由恋愛はかつて社会規範に反していたが、
スタンダールなどの恋愛小説によって、
社会の規範として認められるようになった。

もちろん、自由主義・民主主義以前の社会では、こうした反社会的な著作は
(スタンダールも含め)迫害を受けたが、
自由主義社会においてそうした迫害が
肯定されるべきでないことは自明である。

なぜなら、繰り返しになるが、われわれは現時点の規範には従って
「行為」しなければならないが、
将来的に規範を変化させうる「表現」については、
制限するすべきでないからである。
変化しうるにもかかわらず変化しなかったことが、
規範の正当性を与えているのであり、
規範が絶対化される社会は、その規範を規定する「なにか」によって
自由が失われた社会だ。





471 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/09(金) 14:08:41 ID:U/sG59/l


これが、表現の自由を民主主義の前提と考える理由である。

しかし、表現は常に行為と完全な独立関係にあるわけではない。
例えば、個人のプライバシーを暴く表現、名誉を毀損する表現は、
個人の「行為」の次元に影響を与え、
実際の生活上の自由を脅かす可能性がある。
  (つまり、その個人が表現によって「見られる」という
    「行為」次元の問題が含まれている。
     厳密に法学的に言えば、死者への冒涜など、
      「行為」次元と必ずしも関連しないものもあるが)

自由の原則に照らし合わせれば、「他者の自由を侵害する」自由を
認めるべきではない。
現在の法律では、実際の生活に支障があるほど、
私人の名誉やプライバシーを侵害する行為は違法である。

実写ポルノの問題も、個人の行為と密接に結びついた
表現であるという点に起因する。
実写ポルノは性行為が「撮影される」という「行為」を含んでおり、
写真が手に取られることによって、少女達は他者から
「観察される」「見られる」という「行為」の次元の問題を含む。

少女が性の自己決定能力に欠くというのは、絶対的な倫理規範ではなく
  (絶対的規範なるものが存在するかもあやしい)、
あくまでわれわれの社会の規範に過ぎないが、
われわれは行為の次元ではそれに従わなければならない。
それゆえ、実写ポルノは「行為」次元の問題として、規範的に論じられる。

ところが、いわゆる空想ポルノは、「表現する」「表現を受け取る」という、
純粋に「表現」次元の問題である。

そこに描かれている女性は、実在の女性ではないので、
個々の女性に対して「行為」次元でかかわりがあるわけではない。

一部の反ポルノ派の主張や、かつての日本の刑法175条の解釈のように、
「性行為の非公然性」といった、規範が変更されることが、
女性や一般大衆の人権侵害にあたるという議論は、
自由主義の大前提である、規範変更の可能性をまったく担保していない。

もし「行為」次元でなんらかの影響があることが、
科学的に証明されたならば(例えば強力効果論)、
空想ポルノ規制にもいちおうの根拠が与えられることになるが、
そうした結果は今のところ存在しない。





472 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/09(金) 14:09:05 ID:U/sG59/l


この議論に対する法学者の反論として、もっともポピュラーなものは、
「ポルノは表現ではない」というものだ。

しかし、なにが表現か、ということを規定している時点で、
それはすでに「表現」次元に現在の規範を持ち込んでいる。
すでに挙げたスタンダールの恋愛小説のように、
前の時代に反社会的な大衆娯楽と考えられていたものが、
後の時代に規範として受け入れられ、文学に昇華されることはしばしばある。

何が表現かを決める権力を何かに与えることは(例え選挙民であれ)、
自由主義の論理から言って、容認できない。
書かれるもの、描かれるものは、それがなんであれ表現というほかないだろう。

結論づけると、個人が行為次元で自由を侵害されるわけではない表現と、
実際に被写体のいる表現は、論理的に区別されてしかるべきである。

最後に付け加えると、この論理は、差別表現や危険思想の流布などを
肯定する可能性があるという批判も考えられる。
僕個人は、今まで述べてきたような論理で、表現に関しては差別も危険思想も
肯定されるべきだと考えている。

「私は君の言うことに賛成しない。
しかし、君がそれを言う権利は命を賭けても守る」(ヴォルテール)
という言葉のように。
とはいえ、これらに関してはスレのテーマと異なるのでひとまず置いておく。











473 名前:イモー虫[]
     投稿日:2009/01/09(金) 14:42:14 ID:G/cU3wRK


そんな難しい言葉羅列しなくてもさ、これで簡潔に話は終わる↓

「児童の権利の擁護範囲」に二次は含まれない。
何故ならばキャラクターに人権はないから。
人権(このスレの場合「児童の権利」)は人間に与えられるもの。
『絵は人間(児童)かよ??』って話。











487 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/09(金) 23:41:45 ID:U/sG59/l


ドゥオーキンのような原理的な反ポルノ論者は、
二次元の空想ポルノによって女児一般が「表現されること」によっても、
女児の人権が侵害されると主張した。
(ドゥオーキンの場合は、女児というより女性一般だが)

要するに、女性を性的に略取することを表現することで、
すべての女性の人権を侵害するといった類の議論で、
「二次創作物の流布に至るまでが実在の児童の人権を侵害する」
という主張につながりうる。

人権の範囲を策定する社会規範(彼の言葉を借りれば、感情論)が、
児童の「二次創作物によって表現されない権利」を認定するのであれば、
空想ポルノも一様に規制すべきであるという議論が可能になる。

これに対して、規範の適用できる範囲は、行為の次元のみであって、
規範を形成する表現の次元においては、社会規範は適用されないと僕は論じた。











488 名前:イモー虫[]
     投稿日:2009/01/10(土) 00:18:16 ID:eyBXsM6P


そんな難しい話で世間が納得(同意)するとは到底思えない。

てかこの


『二次元の空想ポルノによって女児一般が「表現されること」によっても、
女児の人権が侵害されると主張』


部分が理解不能。

人権というのは人間の権利。
『人間』じゃなければ女児(18歳未満の女性)などとは言えない。

絵は空想。実在しないもの。

“法的に人間の呼称”を絵に与えてはならない。

絵に人権を与えるようなもの。











495 名前:青識亜論 ◆GJwX8m7K0g [sage]
     投稿日:2009/01/10(土) 12:00:57 ID:RfYRAtAW


>そんな難しい話で世間が納得(同意)するとは到底思えない。

普通の人と議論するときは、創作物規制はけしからん、
ぐらいの話をしておけばいいと思うよ。


captain_nemo_1982さんの議論は、規制賛成派と反対派の
人権の範囲(社会規範)を策定する根拠の問題を論じているから、
それについて僕は個人的なコメントをしただけ。
なんの知識もない人間相手に、ややこしい話をしようとは思わないさ。


>人権というのは人間の権利。
>『人間』じゃなければ女児(18歳未満の女性)などとは言えない。


それは言葉の問題で、「ポルノ表現をされない権利」を女児一般が持っている、
と主張することもできる。
もっと言えば、児童ポルノが存在するだけで、
「ポルノが存在しない社会に生きる権利」を侵害された、ということも可能。
ちょっと詭弁臭く感じるかもしれないけど、権利は必ずしも
個人に還元できないこともあって、例えば似たような理屈だと、
ポイ捨てが罰せられるのは、「ゴミのない町で生きる権利」を
侵害しているからだ。

要するに、規制派は二次元の女性に人権を認めようとしているのではなくて、
あくまで現実の女性の人権が、ただポルノが存在することによって、
侵害されているのだと主張しているにすぎない。

それに対して、僕は、表現を規範によって制限するべきではないという、
簡潔な理屈で反論しているだけ。
ただ、規範とは何か、表現の自由とは何かというところを掘り下げないと、
前提が共有できない可能性があるので、
ああいうくだくだしい書き方になった。




             (2011/3/27 entry)


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